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私の記憶

あらすじ
戦争が引き起こした世界的な飢饉で文明が崩壊した世界。主人公の優斗は父、母と三人で、食料を求めて毎日彷徨っていた。優斗は、ある日突然、記憶を食料として食べられる能力に目覚める。それは以前、飢饉対策の国家研究の被験者となったことが原因だった。通常の食事では空腹を満たせなくなった優斗は、自分の記憶を食べることで生き延びる。それからしばらくして優斗は、親とはぐれてしまった少女――千紗と出逢う。表情豊かな千紗との旅は、ただ死なないためだけに生きていた優斗の世界を少しずつ変えていく。

『プロローグ』
 どことも分からない場所を彷徨いながら、僕たちの感覚の大半を占めているのは空腹だった――”食べる物がない”。これは僕たちだけの問題ではなく、世界的な問題だった。突然始まった大規模な戦争は直接的に多くの命を奪っただけではなく、有毒大気汚染や酸性雨を発生させた。視界は薄暗く、辺りは崩れた建物や焼け跡ばかりで荒廃している。酸性雨はあらゆる物を腐食させていき、文明の形を溶かしていくようだった。そのような環境では育つ動植物が限られ、食料生産は悪循環に陥った。世界的な飢饉により、もはや戦争は立ち行かなくなったが、人口の減少は止まらなかった。失っただけの物を取り戻す力はもう残されておらず、復興の見込みはなかった。人類が築き上げてきた偉大な文明はたったの五年程度で崩れ去る砂上の楼閣にすぎなかった。積み上げるのにかかった時間が嘘のように、滅びてなくなるまでは一瞬だった――その様は人類の終焉というにふさわしかった。

 しかし、それは大きな視点でとらえた世界の話だ。今を生きる僕たちにとっては、広い世界の話は昔と変わらずどこか現実味がなく、ただ苦しい現状のみが眼前に広がっている。農家だった僕の家は食料の備蓄があったおかげで、この状況下でもなんとか耐えられてきた。誰もが食料を求めている。倫理や道徳は食料にまだ余裕があった一年ほどは機能していたが、人々の余裕とともになくなっていった。僕たちは”生きるためにしなくてはならないこと”をしてきた。良心の呵責はいつしか空腹に上塗りされていった。

 食料の蓄えが尽きてからは家を出るしかなかった。毎日歩き回っては食料を探して生きている。生活の中心が食べることになり、一日の大半は「腹が減った」「食べ物はどこにあるのか」「明日の食料は」といったことしか考えられなくなっていた。

 そんな生活が長く続いていたのだが、僕はしばらく前から食事をとっていない。腹が空かなくなったのだ。厳密には”食事の対象”が変わっただけだったのだが――

『記憶』
それはある朝目覚めたときに突然起こった。前日にはあれだけ腹が減っていたはずなのに、まるで嘘のように空腹感だけがなくなっていた。不思議ではあったが、もう思い出せないほど前から味わっていなかった空腹でないことによる多幸感で、原因なんてどうでもよかった。しかし、そんな幸せも束の間、やはり腹が減った。なんとか家族で集めたなけなしの食料をみんなで分けて食べた。……おかしい、少しも空腹が満たされない。僕は焦った。こんな状況下で自分だけ食料を増やしてほしいとは言えない。満たされなかった空腹を抱えながら、その日はどうにかやり過ごした。あまりの空腹で一睡もできなかった。

 次の日の食事は夜になった。そのときには、もう倒れそうなほどに腹が減っていた。母は僕の様子がおかしいことに気づいていたようだが、特段そのことに触れようとはしなかった。……やっと食べられる。そう思いながら何かも分からないようなわずかな食べ物を口にする。

 ……空腹感がまったく薄れない。

 僕はいよいよ焦った。少し蒸し暑い夜にもかかわらず、寒気が止まらなくなり、脂汗が滲み出てくる。心臓の鼓動は耳のすぐ横で鳴っているのかと思うほど大きく、速くなった。ずっと漠然と思っていたが、考えないようにしていた”死ぬかもしれない”という恐怖が襲ってくる。

「少しあげようか?」

 地面の一点を見つめて、ただ恐怖に駆られていた僕に母が言った。――母は大丈夫なのか? という思考が一瞬だけよぎった。しかし、それでも頭の中の恐怖を拭うため、死を感じさせる空腹を満たすために、僕は黙って頷いて食料を受け取った。それを藁にも縋る思いで口に運んだ。「ありがとう。落ち着いたよ」僕は精一杯の笑顔を取り繕って言った。だが実際は何も変わっていなかった。「今日はもう寝るよ。おやすみ」僕はぼろぼろのマットを地面に敷いて横になった。じっとりとした汗の感触が嫌に現実味をもって身体の半分を包む。

 何も解決していない。僕は死ぬのか? このまま死ぬのか? 死への恐怖と身体全体に鳴り響く空腹感で頭がいっぱいになっているなか突然、酷い吐き気に見舞われた。僕は「ちょっとトイレに行ってくる」と両親に伝えて、離れた場所へと走った。……激しく嘔吐した。食べた物全てを出し切ったあとも、胃液が止まらなかった。僕は死ぬのだろうなと考えながら、全てを吐き出した。そんなとき、頭の中にイメージが湧いてきた。”記憶が食べられるという感覚”。今までに生きてきて感じたことのない感覚だった。ふとフラッシュバックした過去が、食べられると感じたのだ。本能的に空腹が満たせると思った僕は迷わずに貪った。何気なく思い付いた昔の記憶。食べていると記憶が滲んでいくのを感じた。そのときに見ていた景色はぼやけていき、聴こえていた音は遠くに離れたように小さくなっていく。それに伴う自分の感情も薄くなっていき、食べ終わったときには”何かの記憶を食べた”ということしか思い出せなくなっていた。空腹が少し満たされたのを感じた。僕は前日眠れていないこともあり、安堵とともに気絶するように眠りに落ちた。

***

 次の日に目が覚めたときには「前日のあれは夢だったのだろうか?」と思った。しかし、依然として”記憶が食べられるという感覚”は残ったままだった。僕は空腹に任せて記憶を貪った。思い付いた端から適当な記憶を平らげていった。ある日の雑多な記憶が消えていくのと同時に、空腹は満たされていった。ずっとずっと満たされることのなかった渇望が満たされていく。前日に襲われていた気持ちの悪い激しい鼓動とは打って変わって、生きる力にみなぎった鼓動を感じている。満腹になれたのだ。「昔の世界にはこんなに幸福なことがあふれていたのか」と、心からの羨望を感じずにはいられなかった。

 ……僕は死んだのではないかとも思ったが、起きてきた父と母を見ると「これは現実なのだ」と認識せざるを得なかった。視線は下を向き、目は虚ろで声は小さく暗い。自分が満たされて初めて、こんなに酷い状況で生きているのだと客観的に理解することになる。父と母のためにも今日も食料を探さなければ――

***

 こうなってしまった原因には思い当たるところがあった。僕は国家研究の被験者だった。戦争が勃発してしばらく、人類の飢饉の兆候が見え始めたとき、多くの国家の余力はその対策への研究投資に使われた。その被験者は有志を募って集められていた……最初の頃は。もっとも、僕は望んで志願した人間だった。両親には反対されたが、研究への協力の見返りとして、食料支給をはじめとした政府からの様々な優遇支援が受けられる恩恵は非常に大きかった。

 国が抱える最高レベルの研究者がそこで行っていた研究は、従来だと鼻で笑われるような突飛な内容のものばかりだった。逼迫した人間は起死回生の一発に賭けてしまうのだろうか。

 そこで研究されていたもののうち、僕が説明を受けていたのは「クローン技術で自己の細胞を培養して食料にする」「海馬と装置を連動させ、記憶を電気信号として取り出し、増幅させてエネルギーにする」「空気中のエネルギーを回収して吸収する」といったものだった。僕は施術を受けるまでの長い待ち時間の間、研究員と雑談をした。

「クローンで複製した細胞も食料が必要じゃないのか?」

「クローンに与えるエネルギーは良質でなくとも済む。それこそ、落ちているゴミから成長させられればいい」

 そんな都合良くいくものなのだろうかと思ったが、質問を続ける。

「記憶のほうは尽きてしまったら終わりじゃないのか? 生活にも支障が出る」

「他人からの記憶を複製すればいい。記憶の読み取りには成功している」 

「複製できるなら自分の記憶を複製して抽出を繰り返せばいいんじゃないのか?」

「理想はそうだが、研究段階では他人からの記憶のほうが独立しているため観測がしやすい」

「空気中からのエネルギー吸収は?」

「……まだ詳細を検討中だ」

 こんなわけの分からない研究に国は予算と人材を割いていいのかと思った。それだけ追い詰められているということだろうが。モルモットにされていた僕だったが、全身麻酔を受けるため施術に痛みはない。特に辛くはなかった。これで家族が楽になるならば安いものだと考えていた。そんな研究も、戦争が立ち行かなくなるころには続けるだけの環境は維持できなくなり、うやむやになっていった。

***

 記憶を食べていて気がついたことがある。幸福な記憶ほど味が良く、悲しい記憶や辛い記憶は不味い。腹持ちの良さはまた別のようで、自分にとっての印象が強い記憶ほど食べたときに量を感じた。電気信号が強かったりするのだろうか。

 僕の調子が良さそうなのを見て、父が「最近どうしたのか」と聞いてきた。「記憶を食べて満腹になれるようになったんだ」と言うのも憚られ、適当にごまかすしかなかった。

 最初こそ長らく苦しんできた分を取り返すように、たくさんの記憶を食べていった。しかし、少し経ったころには不安になってきた。「このペースで食べていては記憶が尽きてしまうのではないか」と。それからは以前ほどではないにしろ、ある程度の空腹状態で過ごすことが多くなった。

 僕が何も食べなくなったと不審に思われないように「我慢できなくて見つけたときに食べてきた」と言ったり、分けられた食料も「食べてきたから」と受け取らずにいたりしていた。そんな不自然な行動はすぐに訝しまれて、数日で僕が何も食べていないことはばれた。僕は現在の状態を包み隠さず話した。両親は最初こそ「息子は空腹のストレスのあまりにおかしくなってしまった」とうろたえていたが、さらに数日僕が何も食べていないのを目の当たりにすると、納得せざるを得ないようだった。それでも両親からの質問は絶えなかった。「体調は大丈夫なのか」「どうやってそうなったのか」「記憶は本当になくなっているのか」「いつまでそれで持ちこたえられそうなのか」正直な話、それらの疑問の多くは僕も知りたいところだった。そうなってしまったと言うしかなかった。余計に心配されそうだったので、怪しい研究のことは黙っておいた。ただ、家族にとっては食いぶちが減った分、少し楽になるという事実は素直に喜ばれるものだった。

 ――このようにして、僕は一人だけ生きられる道を見つけることになった。

『母』
僕は記憶のおかげで少し余裕のある生活になったが、両親は違う。特にここ数日の母の衰弱は酷く、探索には出かけられないほどだった。瓦礫が屋根になって、少し休憩できそうな場所に母を置いて、父と僕は朝から探索に出かけた。調子の悪い母のためにも少しでも多くの食料を探さなければ――

 普通の食事をしていたころは極力エネルギーを消費しないように、最小限の運動量で行動するようにしていた。しかし今、”僕だけは”食料に困っていない。母のために少しでも多くの食料を見つけられるように、普段では行かないような距離まで足を運び、重たい瓦礫もどけて食料を探し続けた。

 探索を終えて戻ったときには夕方で、日が陰りつつあった。母の症状は僕たちの出発の前よりも酷くなっていた。「腹が減っているだろう」父はそう言うと自分が今日見つけてきた食料の全てを母に渡した。僕も父と同じようにした。僕にはもう必要がない物だ。もっとも、記憶が食べられるようになっていなかったとしても、同じことをしていただろうが。

「これはあなたたちで食べて」食料を渡された母は嬉しそうにしながら言った。

「そういうわけにいくか!」父は間髪をいれず焦ったような大きな声で言った。僕もそれに同調する。「僕はもう食料が必要ない。だから僕の分だけでも食べてほしい」少し動揺している僕に対して母は優しく言う。

「私がこれを食べたとしても何も変わらないわ。それよりもあなたたちに少しでも長く生きてほしい。それが私の願いよ」

 そう言って食料を食べようとしなかった。僕たちも弱った母を放っておけるはずがなく、しばらく押し問答をしていたが、母は折れなかった。僕はどうしたら良いのか分からなかった。それは父も同じようだった。ずっとうろたえながら、ときには普段聞かないくらいの大きな声で、何か食べるように訴えかけ続けていた。日は完全に落ちて、辺りは暗くなっていた。時間とともに母の衰弱は目に見えて酷くなっていく。

 母は普段から自分の食料を少なくして分けていた。僕も父も薄々は分かっていたはずだが、自分の空腹に支配されていた僕たちはそれに言及することはなかった。思い返せば行動の節々で、母は家族のことを優先していた。今になって、後悔する。僕がちゃんと母の献身に対して向き合っていたら、何かが変わっていたのだろうか。極限状況下でも家族のことを優先できるような、本当に優しい人に対して、もっとできることはきっとあったはずだ。

 僕と父は弱った母につきっきりで、食事をとるように促し続けた。父も探索で無理をしたようで、酷く疲れた様子だった。しかも食事をとっていないので明らかに顔色も優れない。さすがに少し食事をとるように言ったものの、同意をなかなか得られなかった。なんとか父を説得して少しだけ食事を食べさせた。いつもよりも激しく動いたせいで、僕もかなりの空腹だった。それなりの量の記憶を食べた。ある日の母との記憶はいつもよりも少し味が苦くなっていた。

 夜が更けてきたころ、母はゆっくりと言った。

「お父さん、今までありがとう。優斗のことはよろしく頼むね」

 父は今まで以上に動揺した様子で言い返した。

「縁起でもないことを言うんじゃない!」

 しびれを切らしたように父は立ち上がり、缶に入ったペースト状のコーンクリームを持って母に近づく。そして、無理やりに口を開けて流し込んで飲み込ませようとした。しかし、母はすぐに吐き出してしまう。酷く苦しそうにむせる。

「やめて。私はもう食べても助からないから」そう言っている母にかまわず父はもう一度飲み込ませようとしていた。僕は見ていられなくなり、止めに入った。母の様子からして、その衰弱の原因は飢餓だけではないのは本当だと思えた。父は茫然としながら、ぽつりとこぼした。

「俺はどうしたらいいんだ?」

 母は少しだけ口角を上げて言った。

「最後までそばにいてくれたら、それでいいわ」父は力無く母のそばに座り込んで黙ってしまった。

「優斗」

 母は僕の名前を優しく呼ぶ。

「なに?」僕が返事をしてから、母は聞いた。

「記憶は本当に食べられるの? お腹減ってない?」

「本当だよ。お腹も減ってない」

「印象的な記憶のほうがお腹いっぱいになるのも本当?」

「間違いないと思う。良い記憶はほとんど食べてないけど、少なくとも嫌な記憶はそうだった……不味いけど」

 こんなときにまでも僕の心配をしてくれる母に胸が痛む。また後悔の念に駆られはじめた僕に、ひと呼吸おいてから母は語り始める。

「――優斗、こっちを見て。私はここで死んでしまう。だから、できるだけ、もっともっと辛い思いをしてほしい。私は苦しみ悶えながら死ぬことにするわ。そうしたらあなたは少しでも長く生きられるんでしょう?」

 そう言ったあと、優しく微笑みながら続けた。

「あなたは優しい子だから、この言葉もこの記憶を辛くするのでしょうね」

 僕は言葉に詰まった。過去の母との思い出が蘇ってきて苦しくなる。母は手招きをして、こちらに来るように言った。僕が近づくとそっと抱き寄せた。しばらく僕を抱きしめたあと、「これをあなたに。遺せる物がこれくらいしかなくてごめんね」そう言って自分の薬指から指輪を外して僕に渡した。

 そのあとは苦しそうにしながらも、昔の話をとつとつと語り続けていた。父と出会ったときの話、僕が小さいころの話――世界がこうなる前のたくさんの思い出について。そして母は、戦争が始まったあと、こんな状況になったあとも「あなたたちといられて幸せだった」と迷いもなく言った。

 夜も更けてきたころ、いよいよ喋るのも辛そうになってきて、黙ってぐったりとしてしまった。僕と父はなんとかして介抱しようとするが、回復の兆しは一向に見られない。夜通し一緒にいて、辺りが少し明るくなったころ、母は突然苦しみだした。言葉にならない声を上げて、体を震わせて苦しんでいる。「私は苦しみ悶えながら死ぬことにするわ」という母の言葉を思い出す。これは僕に辛い記憶を刻むための演技なのだろうか。そんなことが頭によぎる。どうか演技であってほしいと願いながら、父と共に母の手を取り、声を掛け続ける。母はそのまま数十分と思われる時間苦しみ続けて、最期には息を引き取った。

 父と僕はその場に座ったまま、二人とも黙ったまま、ただ母の亡骸を見つめていた。しばらくして父は「少しでも母さんが静かに眠れる場所を探してくる」と言っておもむろに立ち上がり、力無く歩いていった。

 ――この日、僕に人生で一番大きな記憶が刻まれた。

 
『邂逅』
あれから数か月経ったが、父はことあるごとに「母さんのことは覚えているか」と僕に聞いてくる。それは何を意味しているのだろうか。忘れないでいてほしいのか、忘れてほしいのか。

「覚えているよ。そう簡単に家族の記憶を全部食べられるはずもない」それを聞くと父は「そうか」とだけ言った。

 喪失感を抱えた僕たちは落ち込みながらも、生きるためには日々の活動をやめるわけにはいかなかった。僕が食料を必要としなくなってから、両親はかなり後ろめたさがあるようだった。僕には必要のない物を毎日ずっと探させていることに対してだろう。父と二人になってから、それをより顕著に感じるようになった。探した食料を渡すたびに「悪いな」とばつが悪そうに呟く。家族のために食料を探すのは当然のことだ。それにもし、食料を探す時間がなくなったところで、この世界でやりたいことなど見つけられる気もしなかった。嬉しい楽しい面白い――そんな感情とはかけ離れた生活。最後に笑ったのはいつだっただろうか。少しでも幸福といえるのは空腹が満たされたときと泥のように眠る瞬間だけ。もっとも、満たされるのは一瞬だけで、次の瞬間にはひどい空腹に襲われる。倒れるほどの疲労を抱えていても、空腹のあまり満足に眠れないことも多かった。極限の飢餓と睡魔のなかで、ひたすら強く鈍く、頭痛とともにぐるぐると頭のなかを回る思考。その意識と葛藤する時間は耐え難い苦痛そのものだった。僕は何故かその極限状態から一歩離れることが許された。だから正直なところ、僕も父に対してばつが悪かった。一蓮托生で動いていたのに自分だけ突然救済が与えられたことに後ろめたさがあった。

 ぎくしゃくとしながら二人で放浪を続けていたある日の夕暮れ前、遠くで微かに人の声のようなものが聞こえた。人と遭遇するのは久しぶりだった。今まで大体の場合、良い結果にはならなかった。嫌でも身構えてしまう。鞄にしまい込んでいたナイフを取り出し、父と二人で声のする方へ近づいていく。近づいていくにつれて、それが泣き声であることが分かる。おそるおそる声のする方に、物音をできるだけ立てないようにさらに近づいていく。声の主は女の子だった。その場に座り込んで泣いている。十歳くらいだろうか? もっと幼くも見える。そんなことよりも周りが気になった。女の子を囮にした罠かもしれないと辺りを警戒するが、特に人影も何も見当たらなかった。父とうろうろ周りを見て回っているうちに、少女がこちらに気づいた。僕たちに気づくやいなや、それまでより一層大きな声で泣き始めてしまった。ひとまず危険はないと分かったし、放っておくわけにもいかないので少女をなだめる。自分より年下の子供と話すのなんていつ以来か思い出せない。……どうやってなだめればいいんだ?

「何もしないよ」「怪我はない?」などと声を掛けてみるがまるで聞く耳を持たない。仕方なく今日見つけた食料の一部――なかでもまだ食べやすそうな物を渡す。これはお菓子だろうか。パッケージはなく、個包装も一部剥がれていてラベルもないが状態は悪くない。手に握らせると大声を上げるのは止まった。渡した食料を素早く頬張りながらも大粒の涙は流れ続ける。質問にも答えようとしないし警戒心は解けない。父も不器用ながら声を掛けていたが、どうにもなりそうになかった。貰った物を食べ終わったらまた泣き始めてしまった。

 そんなことをしているともう夜になり、辺りは真っ暗だった。しばらくすると三角座りをして、顔をうずめて、声は上げずにぐすぐすと鼻をすすりながら、しゃっくりを漏らしていた。その様子は可哀そうで見ていられなかったし、夜寝ている間にどこかに行かれると危ないので、なんとか信頼は得ておきたかった。

 どうしたものかと考えているときに昔の記憶がふと蘇った。まだ僕が幼かった頃、”まだ僕たちの世界までは”戦争の影響が及んでいなかった頃。母が折り紙で花を作ってくれた。自分も作りたいとせがんだ僕に、優しく折り方を教えてくれたある日の日常の思い出。

 僕は落ちていたボロ布を手に取り、ナイフで四角く切り取って、記憶を頼りに折り進めていく。出来上がった不出来な花を少女に見せる。少女は一瞥をくれたあと、すぐにまた顔をうずめて一蹴した。

「可愛くない」

 その声は泣きすぎてがらがらになっていた。やはりダメかと次の案を考え始めたとき、少女はうずめていた顔を一瞬だけ上げて、僕の手からボロ布で出来た花を取り上げて抱き寄せながら顔をうずめ直した。

「気に入ってくれた?」

「ぜんぜん」

「作り方教えてあげようか?」

 ゆっくりと顔を上げてこちらを見たあと、不機嫌そうな顔をしながらもこちらに寄ってきた。またボロ布を見繕って四角く裁断する。それを少女に渡して、僕も隣で一緒に作りながら教える。記憶の中で折り方を教えてくれた母と、今の僕を重ねてしまって少し泣きそうになるが、こらえながら少女に作り方を教える。完成したあと得意げに少女は言った。

「わたしのほうが上手い」

 実際この子のほうが上手かった。当時の母は、僕に上手だと言って褒めてくれたが、僕はあまり器用ではないらしい。「もう一つ作る」と言い出したので布切れを探していると、横でうつらうつらとし始めた。疲れていたのだろう。

「明日また作ることにして今日は寝よう」

 まだ作りたい様子だったが、簡易的な寝床を用意してやると、黙ってそこに横になり、十秒後には寝息を立てていた。ひとまずは大丈夫だろうとほっとした。子供のことはよく分からない。少し遠目に見守っていた父と話す。

「子守は得意なのか?」

「生まれて初めてやったよ」

「そうだろうな」と父は少し笑った。

 そんな会話を交わしたあと、今後のことについて話し合う。小さな子を一人置いていくわけにもいかないので、保護者が見つかるまで同行させるしかないという結論に至った。不安なのは、その保護者が見つかったとして、話せる相手ではなかったときのことだった。最悪の想定はせざるを得ず、この子を人質にすることも、一つの策として考えておかなければならなかった。最善の結末は保護者に無事引き渡すことができて、諍いなく別れることだ。

「お前は疲れただろう。この子が勝手にどこかに行かないよう、俺が気にかけておく」

 その言葉に甘えることにした。酷く疲れた。少女から二メートルほど離れた場所に横になって目を瞑る。どうにも母に折り紙を教えてもらっているあの記憶が頭から離れない。何度も何度も、そのときの様子が、母の笑顔が、僕の抱いていた感情がループする。それと同時に、母の最期の姿がフラッシュバックする。折り紙を教えてくれているときの母の笑顔の先の結末が、あの苦しみ悶えていた姿だと考えたくなかった。しばらく寝付けずにいた僕は、まだ食事をとっていなかったことを思い出す。僕は決心して母の最期の瞬間の記憶を食べてしまおうと考えた。辛い記憶も忘れてしまえるなら、そのほうが良いだろう。……母もきっとそれを望んでいた。しかし、いざ食べようとすると、とても手をつけられるものではなかった。食べるために記憶の輪郭に触れるだけで、今まで味わったことがない、吐き気を催すほどの苦みを感じる。加えて、その記憶の大きさは簡単に食べきれる量ではなかった。……母との記憶はしばらく食べられそうになかった。適当な記憶を食べてから眠った。

『千紗』
翌朝、僕が目覚めたとき、少女はまだ眠っていた。これからどうしたものか。昨日は疲れただろうから、まだ寝かしてやることにした。ひとまず食料探しは父に任せて、僕は彼女と一緒にいることになった。眠っている少女をぼんやりと眺める。身長は僕の胸より低いくらいだろうか。髪は肩まであるロングヘアで、ずっと切られていないであろう伸びすぎた前髪は無理やりヘアピンで留められていた。背丈や見た目からやはり十歳くらいに見える。胸元にリボンが付いた上品そうなワンピースを着ていたが、元の色が分からないほどに酷く汚れていた。青い宝石が付いた銀色のペンダント型のネックレスを首にかけている。……サファイアだろうか。今も片手に握って眠っている。大切な物なのだろう。

 しばらくすると少女が目を覚ました。眠たげに目をこすりながら顔を上げてこちらを見ると、ぎょっとした顔をする。昨日のことを一瞬忘れていたのか、起きたら見知らぬ人間が近くにいたことで、かなり驚いていた。一気に目が覚めたようだった。少女は黙って少し俯いたまま喋らない。気まずい雰囲気をなんとかするために、僕が何を話そうかと考えていると、彼女は小さな声で言った。

「昨日の続きを……やりたい……」

 会ったときよりも警戒されていないようで、僕は少し安心した。昨日用意していたボロ布を取り出して、一緒に花を作った。彼女の作った花は昨日よりさらに綺麗な仕上がりになっていた。僕の花も昨日よりは幾分かマシになった。まだ作りたそうだった彼女に、鶴の折り方も教えた。……そういえば折り鶴は平和の象徴だったなと、くだらないことを考えながら。

 昨日の様子から心配していたが、彼女は少しだけ楽しそうだった。しばらくボロ布を使った折り紙教室を続けていると、父が戻ってきた。ずっとここにいるわけにもいかず、この子を連れて三人で食料と保護者を探すことにした。

 移動しながら保護者について聞き出そうとしたが「わかんない」と返すだけだった。分からないことはないだろうと思ったが、下手に強く出ても余計に話ができなくなるだけだと考えて、気長に構えることにした。

 昨日の時点でかなり疲れていた様子だった彼女は、三時間ほど歩いたところで限界がきた。ひとまず食事をとってしばらく休憩することにした。久々の二人ではない食事は少し変な感じがした。食事中、不思議そうにこちらを見ている。

「僕はお腹が空かないんだ」

 そう答えた僕を訝しみながら、自分の食事を続けていた。僕は家族で食事をしていたときの記憶をいくつか食べた。

 休憩後、仕方なく父と交代で少女を背負って移動することになった。酷く痩せた彼女は背負って歩いてもなんとかなる重さだった。なるべく遠くには行かず、少女の保護者を探した。

***

 両親の話題以外には徐々に答えてくれるようになった。

「名前は?」

「千紗。あなたはなんていうの?」

「僕は優斗」

「優斗ちゃん?」

 突然の呼び方に少し驚いてしまった。

「いや、ちゃんづけはちょっと」

「でもわたしは千紗ちゃんって呼ばれてたよ?」

「男の人の場合は『ちゃん』じゃなくて『くん』を付けるんだ」

「優斗くん?」

「そうだね」

 彼女を背中に背負いながら他愛もない会話をした。あっという間に時間は過ぎて、この子の両親とは出会えないまま、何事もなく一日が終わってしまった。

 少女と出会ってから一週間が経過したが、少女の保護者にはいまだに出会えていなかった。本人からも何も聞き出せていない。父はあまり愛想がよくないのもあって、酷く僕に懐いた。出会って数日は表情が暗かったが、少しはマシになっていた。しかし、両親についての話は聞いても答えない。頑なに話をしないので、何かあったであろうことは父も僕も理解していた。そのため強くは聞き出せずにいたのだが、そろそろ限界だった。長期間同じ場所に滞在はできない。……食料のストックがあまりない。

***

 今日もなんの収穫もないまま日暮れを迎えてしまった。父とも相談したが、やはりこれ以上の足踏みはできないという結論に至った。父は僕に「頼んだぞ」と言って、その場を離れる。懐いている僕一人のほうが話しやすいだろうと考えたからだ。僕は意を決して強めに聞く。

「もう食べる物がなくなってきてる。僕たちはここを離れてしまうから、お父さんとお母さんについて話してくれないと会わせてあげられなくなる。だから、教えてほしい」

 彼女はまた暗い表情になり俯いてしまった。

「怒ったりしないから、お願いだから話してほしい」

「――お父さんとお母さんは……」

 そこまで言うと泣き出してしまった。最初に会ったときとは違い、声を上げず、ただ大粒の涙がぼろぼろと流れ続けた。何かを言おうとしているが、声が詰まって言葉にできないようだった。

「ゆっくりでいいから」

 声を押し殺したような小さなしゃっくりを数度漏らしてから、嗚咽混じりに話し始めた。

「お父さんもお母さんも歩くのが速くて、追いつけなくなって……」

「頑張って走ろうとするけど、足が動かなくて……」

「『待って』って何度言っても二人とも振り返ってすらくれなくて……」

「そのまま、遠くに見えなくなっちゃって……」

 僕が何か声を掛ける暇もなく彼女は続ける。

「わたし、ずっとずっと良い子にしようと頑張ってたのに」

「二人とも昔は『偉いね』って言ってくれてたのに」

「だんだんお話ししてくれなくなって、手も繋いでくれなくなって」

 今までより大きな声で彼女は言った。

「わたしはどうすればよかったの?」

 それはずっと家族に聞いてほしかった言葉だろうか。言えずに心の中に溜まっていた言葉だろうか。堰を切ったように言葉が涙と一緒にとめどなく溢れていく。

「お父さんとお母さんに会いたい。また抱きしめてほしい」

「みんなで笑ってご飯を食べたい。いろんな話をしたい」

「『大好きだよ』って言って頭を撫でてほしい」

 そこまで言うと、彼女はペンダントを片手に握りながら、出会ったときのように大声を上げて泣き始めた。

 僕は掛ける言葉が見つからなかった。だからといって、彼女を一人で泣かせておくのはあまりにも見るに堪えなかった。正解は分からなかったが、僕は彼女の前で膝をついて抱きしめた。何も言えなかった。彼女は僕の背中に手を回して抱き返す。しばらくの間、彼女は泣き続けた。まだ幼い彼女の境遇を思うと胸が酷く痛んだ。ただ抱きしめることしかできなかった。

 彼女が泣き止んだころには辺りはもう真っ暗だった。鼻をすする音だけが寂しく響く。彼女は呟くような声で言った。

「わたしお父さんとお母さんが幸せになれるなら死んじゃってもいいかなって思ってたんだ。でも、わたしにできることはなくて、二人はわたしの前からいなくなっちゃった」

 彼女は僕の胸を手で押して身体から離す。そして僕の顔を見て言った。

「優斗くんもいなくなっちゃう?」

 少し投げやりに、諦めたような口調でそう言った。

「いなくならないよ」

 そう言うしかなかった。他の答えを言えるはずもなかった。

「約束するよ」

 会って一週間の他人が語る、薄っぺらい約束という言葉。

「……約束?」

 僕の言葉を聞き返したあと、彼女は疲れ切ってしまった表情のまま小さく微笑んで「ありがとう」と言い、僕を抱きしめた。僕の言葉をそんなに信じていないようだった。それでも僕のことを抱きしめて離さなかった。会って間もない赤の他人、口だけの約束。そんな脆い約束に、優しさに縋ってしまうほど彼女は辛かったのだろう。しばらく無言で抱き合っていると、彼女の力が抜けていくのが分かった。

「今日はもう寝るといい」僕がそう言うと彼女は「うん」と返事をして手を離した。マットを敷くと彼女は横になり、数分もしないうちに眠りに落ちた。

 父を呼び戻してから経緯を説明した。

「そうか……この子も大変だったんだな」

 腕を組んで少し考えてから父が言う。

「これからどうする? 今日のように行動するのは大変だと思うが――」

 父の言葉を遮るように僕は言った。

「まさか放っておくわけにもいかないから、連れていこう。小さい女の子一人分の食料ならなんとかなるはずだ。……僕に食料は必要ないし」

「……分かった。連れていこう」

 それ以上父は何も言わなかった。食事をとってから寝た。僕は昔父におぶられて帰った記憶をいくつか食べた。

 翌朝、彼女は昨日何事もなかったかのように笑顔で振る舞っていたが、少し無理をしているように見えた。

「無理はしなくていいよ」僕がそう言うと彼女は少し表情を崩して「うん」と答えたあと、続けた。

「でも嬉しいのは本当だよ。約束したからね!」彼女は笑った。

 ――こうして僕たち三人での行動が始まった。

『父』
三人で行動し始めて一か月ほどになる。夏は完全に過ぎて気候は良くなった。辛い割に単調な日々だったが、彼女はいつも楽しそうだった。彼女が纏う雰囲気は、どこか空気を少し明るくさせるものだった。三人で昼食をとる。母を亡くしたあと父はずっと暗かったが、最近は少しだけ表情が柔らかくなったように思う。食料事情は変わらず厳しいままではあるが、穏やかな食事は少し昔に戻ったような気分にさせた。

 ただ、気になることがある。父の食べる量が明らかに以前より少なくなった。

「最近あまり食べてなくないか?」

「食が細くなったのかもな」

 千紗が割って入る。

「わたしが食べてあげようか!」

「やめなさい」僕が彼女を窘めていると、父は珍しく笑っていた。

 その日の夜、千紗が寝たあと、父は僕を呼び出した。何やら険しい顔をしている。

「どうかした?」

 父は険しい表情のまま話し始めた。

「――言い難いんだが……お前も気づいているだろう? ここのところ人とはまったく出会うことがなくなってきた。見つかる食料の量も日に日に減っていく」

 僕は嫌な予感がした。

「”どう考えても足手まといなんだ”」

 ――どうして急にそんなことを言うんだ? さっきまで楽しそうにしていたじゃないか。理解が追いつかなかった。

「じゃあどうするっていうんだ?」

「このまま置いていく」

 その言葉を聞いた瞬間に、あの日の千紗の姿を思い出す。泣きながら両親との別れを語った彼女を……そんな両親のために死んでもいいと言った彼女を。

「そんなことできるわけないだろ!」

 大きな声が出てしまう。慌てて千紗の方を確認する。目は覚ましてないようだった。それなりに離れていて助かった。

「情が移ってしまったか。気持ちは分からないでもないが……。こうなるなら最初から連れていくんじゃなかったな」

「急にどうしたんだ? 冷静になってくれ」

「俺は冷静だよ。俺はお前のためになら食事を差し出して死んでもいいが、赤の他人の子供に命を差し出すほどお人好しじゃない。どうしても置いていくのが無理だというのなら、今ここであの子は俺が殺す――この出来事は、お前の良い食料にもなるだろう。辛いならすぐに食べてしまえばいい」

 ――父は何を言っているんだ? 頭が真っ白になる。しかし、そんな僕をよそに父は鞄からナイフを取り出し、千紗の方に向かおうとする。

「待ってくれ! やめてくれ!」

 父と揉み合いになる。どうする? 大声で千紗を呼んで起こすか? でも起こしたとしてその後どうする? 考えを整理する余裕はなく、父を抑えるのに必死だった。次の瞬間、父は自分の脇腹にナイフを深く突き刺した。……僕は幻覚でも見ているのだろうか? 父は片膝をついてその場に座り込む。

「一体なんなんだよ……」

 これが悪い夢であってほしかった。しかし、自分の鼓動の音、父の荒い息づかい、広がっていく鮮血の赤色……その全てがこれは現実だと訴えかけてくる。なぜだ? どうしてだ?

「言っただろう? ”どう考えても足手まといなんだ”」

 ……あれは自分のことだったのか? 意味が分からなかった。別れて行動すればよかっただろう? あの子を殺そうとした意味は? 母さんに会いたかったのか? そんなことが頭をぐるぐる回っているときに母の言葉を思い出す。

「”そうしたらあなたは少しでも長く生きられるんでしょう?”」

 ……僕に大きな記憶を作るためだ。

「前からこうするつもりだったのか?」

「まあな」

「僕はこんなことは望んでいない。母さんと違って……父さんは生きられるはずだ。まだ傷の手当てをすれば助かるかもしれない。みんなで生きられる方法を探そう」

 そんな僕の言葉は届かず、父は自分の身体からナイフを抜き取り、持ち直して自らの右足に突き立てる。声を押し殺した、声にもならぬ悶絶をする。

「これで俺はもう歩けない。お終いだ。さっきも言ったが俺は足手まといなんだ。出会ったときこそ心配だったが、あの子は思ったよりも体力がある。食料の要らないお前と子供一人。それが一番長く生きられる可能性が高い。どうせ俺一人だけで生きていても寂しく野垂れ死ぬだけだ。だったらせめて、お前の腹の足しにでもなればいい」

「そんなこと……」

 僕が何も言えないでいると、父は普段と比べるとか細い声で続けた。

「俺の死体は少し離れたところに捨てておいてくれ。埋めたりしなくていい。時間をかけて、もし気づかれたらどうする? あの子の悲しい顔は見たくないだろう。俺の鞄の中にブルーシートがある。血痕はブルーシートで隠すといい」

 自分が死んだあとのことを話している父が信じられなかった。

 ――父さんはまだ生きているのに。

「今日の記憶でお前はどれくらい生きられる?」

「……分からない。母さんの記憶もまだ食べられていない」

「そうか……。俺の記憶は早く食べて忘れてしまうといい」

 父は軽く笑った。

「最後に俺もこれを渡しておこう」

 そう言うと父は震える手で薬指にはめた指輪を外して僕に渡す。

「――優斗、母さんと一緒にお前の無事をずっと願っているよ」

 僕の目を見て笑い掛けたあと、父はゆっくり瞼を閉じた。僕は結局、何の言葉も掛けられなかった。茫然とその場にへたり込んだままだった僕は、千紗の寝言を聞いて我に返る。……あの子にまた悲しい思いをさせるわけにはいかない。巡るたくさんの思考を一度放棄して、それだけを考えて動いた。僕は父の言った通りに父の亡骸を処理した。

 僕は一睡もできずに、家族との記憶を思い出していた。まだこんな状況になる前、世界に今より幸福が多かった頃。記憶のなかの父と母は笑っていた。なんでこんなことになってしまったのだろうか。今生きているかも分からない、戦争を始めたどこかの誰かを意味もなく呪った。たった数年で何もかもが変わってしまった。

 千紗が目を覚ました。ゆっくりと身体を起こして伸びをして、まだ眠そうにしていた。

「おはよう」

「おはよう。準備ができたら行こうか」

 僕は立ち上がって広げていた荷物をまとめ始める。

「優斗くんのお父さんは?」

 どう説明するか考えていなかった。適当にごまかす。

「しばらく別行動することになったんだ。もしかしたら……もう会えないかもしれない」

 彼女は自分のペンダントを軽く指で触った。

「そっか。優斗くん、大丈夫?」

「……大丈夫だよ」

 そう答えた僕の様子を見て、千紗はジェスチャーで屈むように言ってきた。僕が屈むと彼女は僕の首に手を回して抱きしめた。

「わたしがいるから寂しくないよ」

 そう言って彼女は僕の頭を撫でた。彼女はその後、父について尋ねてくることは一度もなかった。

 ――僕たちは二人で旅をすることになった。

『学校』
移動していると学校のような建物が見えてきた。広いグラウンドには当時避難の際に利用していたと思われる仮設のテントが、崩れて紙くずのようになっていた。体育館だけでは避難が間に合わなかったのだろう。大きな校舎は半壊していたが、まだ原型をかなり残していた。今となっては珍しい。

 千紗は校舎を見つけるなり僕に聞いてくる。

「あれはなに?」

 戦争が始まったタイミングと年齢的に学校には通ったことがないのだろうか。どう説明するか少し迷ったあと、「学校だよ。子供はみんなでここに来て、勉強したり遊んだりしていたんだよ」と答えた。僕が答えるとすぐに目を輝かせて、「行ってみたい!」と言い始めた。僕は説明の仕方を間違えたと悔やんだ。

「ダメだ。危ないし、そんな時間はない」

 多くの人が避難に使っていた学校に食料が残っている可能性は低く、倒壊の可能性がある校舎には極力近づきたくなかった。

「嫌だ! 行きたい行きたい!」と千紗はぐずる。

 僕は屈んで彼女の目線まで落として説得した。

「いいかい、僕たちには余裕がない。今はまだ食料が少しあるけど、次がいつ見つかるか分からない。生きるためには時間も体力も無駄にできないんだ」

 悲しそうにしゅんとなった彼女は少し俯きながら小さな声で「わかった」と言った。物分かりが良い分、罪悪感がある。

 それなりの時間になったので昼食をとることにした。千紗は食事中も悲しそうにしていた。機嫌が悪くなってくれたほうが、まだこちらとしては心が痛まないのだが……。そんな千紗を見ながら考えていた。「”生きるためには時間も体力も無駄にできない”」と僕は言ったが、それで本当に良いのだろうか? 僕たちは生きるためだけに行動してきた。それ以外、そもそも考える余地などなかった。ただ生きることを目的に毎日歩き回って、ぎりぎり死なないように、なんとか耐えてきた。それをずっと続けてきた。だがしかし、この先、この世界が救われて、以前のように豊かに生きられる可能性は――どう楽観的に考えてもゼロだった。彼女はおそらく物心ついてからほどなくして、こんな状況下で生きることになったのだろう。幸せな時間はきっと少なかったはずだ。そんな彼女が目を輝かせて望んだことを無下にするのは本当に正しいことなのだろうか。

 僕が難しい顔をして悩んでいるのに気がついたのか、千紗はこちらを見ていた。目が合うと千紗は少し困ったように、にこっと愛想笑いをしてみせた。ああ、彼女はずっと自分が悲しいのをこらえて、一番気を許せるはずの人たちに、こうやって笑顔を取り繕って生きてきたのか。

「学校に行ってみようか」

 彼女は目を大きくして「いいの?」と聞いた。

「うん。ただし、絶対に僕から離れないこと」

 彼女はさきほどとは違う笑顔を見せながら「わかった!」と大きな声で答えた。

***

 校舎は近づいてみると思った以上に状態が良かった。これなら崩れていないところを、気をつけて進めば大丈夫そうだ。

「面白いものは多分ないと思うよ」

 保険をかけるように僕は言った。あまり期待をさせてしまって、がっかりさせるのは心苦しかった。そんな心配をしている僕をよそに、千紗は既に楽しそうにしていた。普段は民家や納屋、倉庫を回ることが多く、景色はいつも変わり映えしなかった。そのせいか千紗は新しい景色を物珍しそうに、きょろきょろと見回していた。

 僕も学校に来るのはいつ以来か分からないほどだった。こうして改めて見ると、学校の景色は特殊なものだった。当時からは考えられないような惨状になってしまってはいるが、長い廊下、教室に並んだ椅子や教卓、黒板。その様子は当時の学校生活を少しだけ思い起こさせた――

 勉強は得意だった。教科書は一度見れば覚えられるし、テストも授業を聞いていれば十分だった。当時こそ羨ましがられていたが、今はそんなものはなんの役にも立っていない。運動の一つでもしていればよかったなと思う。……勉学を共にした彼らのうち、どれくらいが今も生きているのだろうか?

 僕たちは一番近くにあった教室に入ることにした。ドアは斜めに外れていて、半開きのままの状態になっている。教室に入ってすぐに黒板を指差して、「これはなに?」と千紗が言った。「これは黒板だよ」そう言ったあと、チョークを探したが、使えそうな物は見当たらなかった。僕は足元から適当なコンクリートの欠片を拾い上げ、黒板に絵を描いて見せる。千紗は興味津々でそれを見つめながら「それクマ? 私も描きたい!」と前のめりになりながら言った。……猫のつもりだったのだが。やはり僕は器用ではないらしい。生きるためではない目的で――自分の意思で物に触れたのはいつ以来だろうか。

 黒板に描かれた消せないアートは、隣の教室へ、またその隣へと増えていった。千紗は本当に器用なようで、大体が何を描いてあるのかがよく分かるものだった。花、木、車、自分の持っているネックレス、そして学校などいろいろなものを描いていた。その中で、明らかに人間が描かれていたものが三つあった。

「これは?」

「お父さんとお母さん」

「こっちは?」

「優斗くん!」

「よく描けているね。ありがとう」

 千紗が引いた線を指でなぞりながら考える。僕の顔はどんな風だっただろうか。思い出せるのは濁りきった水に歪んで映った自分だけだった。黒板に刻まれた僕の顔は笑っているが、今の僕は笑えているだろうか。そんな僕とは反対に、千紗はずっと笑っていた。千紗は会ってから見たことがないほどに楽しそうだった。来てよかったと思った。

***

 校舎は二棟あった。今僕たちがいる棟に大きく崩れた場所はなかったが、向かいの棟は七割ほど崩れていた。こちら側の校舎は外から見た以上に綺麗に残っていた。おそらく大丈夫という判断で、上階に登った。

 その後も黒板に絵を描きつつ教室を回る。家庭科室や理科室、技術室などいろいろな教室があった。汚れ切った流し台、おぞましい姿になってしまった人体模型、割れたフラスコ、大きなベルトサンダー。千紗は何かを見つける度に「これはなに?」と聞いてくる。「みんなで料理を作っていたんだ」「いろんな実験をしていたんだ」そう教えていると嫌でも、当時の学校生活が脳裏にちらつく。まだ数年前のはずなのに、酷く昔のことのように感じる。その頃の僕たちのきっと誰もが、こんな世界になることを夢にも思っていなかっただろう。

 教室を回りながら、廊下の端から端まで行っては上の階に上がる。これを三度繰り返して最上階に着いた。同じように教室を回って最後の教室になった。最上階の一番隅の教室――音楽室だった。

 教室に入る前から千紗の視線は明らかに、黒板の横にある大きな黒い物体にくぎ付けだった。

「ピアノだよ。触ると音が鳴るんだ」

 鍵盤を触ってみるが音が出ない。いくつか触っていると「ぽーん」という気の抜けた音が鳴った。千紗はこの世で初めて音を発見したかのように驚き、興奮していた。

「わたしもやりたい!」

 そう言うとすぐに鍵盤を触り始める。八十八鍵のうち、まだ音が鳴るのは半分ほどだった。調律も合っていない、あまり耳触りの良くない音。それでも千紗はひたすら夢中になって弾き続けた。よく飽きないものだと感心する。

 千紗の演奏を聴きながら、「もう生きているうちに音楽を聴くことはないのかもしれないな」と漠然と考えていた。僕は昔流行った曲を口ずさんだ。ありがちなラブソングだった。歌詞はあまり好きではなかったので、メロディだけをなぞる。僕が声を出してすぐに千紗はぴたっとピアノを弾くのをやめてこちらを見た。僕は驚いたのと、歌っていたのが途端に恥ずかしくなって黙る。すると千紗は続けてくれと言わんばかりにじっとこちらを見つめる。しばらく待ってみるが諦めてくれそうになかった。……僕は少し咳払いをして、続きを歌った。人前で歌を歌う機会が人生でまた訪れるとは思ってもみなかった。

 一通り歌い終わると、千紗は小さくぱちぱちと拍手をした。僕はかなり恥ずかしかった。長らく忘れていた感情だった。千紗は少し考えたような顔をしたあと、目を瞑って僕がさっきまで口ずさんでいた歌を歌い始めた。その記憶力の良さに感心するとともに、その歌に聴き入ってしまう。年相応の幼い声ではあるが、綺麗な声だった。

 学校に入ったときはまだ高かった日は傾き、外は暗くなっていた。

「今日はここで泊まることにしよう」

 ピアノを触れるからか、千紗は嬉しそうだった。僕たちはひとまず食事をとった。千紗には数日前に大量に手に入れた乾パンのような保存食を今日も渡す。

「またこれ?」

 少し不服そうな顔をしながらも、がじがじと乾パンを齧っていた。僕は手近な記憶を食べていく。さっき思い出した合唱コンクールの記憶。……僕がピアノを弾いていた時の記憶。もうピアノを弾くことも聴くことも一生ないのだろうな。そう思った。

 食後も聴衆が一人だけの演奏会はしばらく続いた。

 千紗が満足して二人とも横になって眠ろうとしたとき、さっき歌った歌を彼女はまた口ずさんだ。優しい歌声がしんとした夜の教室に響く。自分の歌が子守唄になったのか、最後まで歌いきる前に彼女は眠りに落ちた。

 学校をあとにしてからも千紗は定期的にこの歌を口ずさむようになった。

 ――僕の生活に新しく音楽が加わった。

『遊園地』
千紗と一緒に行動し始めてから季節は一巡した。食料の危機にはなんとか陥らずに済んでいる。僕たちがまだ生きられているのは、運によるところが大きいだろう。ただ、二人がかりで一人分の食料を探して生きられるのは明らかに有利だった。子供一人の食料は大人と比べて探しやすい。その事実は僕にとっては辛いものだった。父のとった選択は”間違っている”。

 僕は記憶が食べられることを千紗に話していない。僕のこれのせいで結果的に母も父も辛い思いをすることになった。僕にとって良い印象はないし、話す必要も特にないだろう。

 物資の補給で訪れていた民家で、使われていない日記帳を見つけた。――これを使おう。毎日の出来事を書いておいて見直せば、もしその記憶を食べていても、ある程度はごまかせるだろう。

***

 街中から少しだけ離れた場所を歩いていると、開けた空間に出てきた。遊園地だった。目を引く大きな観覧車は支えから外れてしまっていて、ジェットコースターのレールはひしゃげている。もう水が出ていない噴水に、半壊している大きな城――夢のような空間は荒廃により一転して暗い空気を呈していた。象徴的なモニュメントや建物が崩れている様は、世界の終わりを体現しているようだった。

 楽しい雰囲気とは無縁に見えるこの大規模な廃墟を前にして、千紗は既にそわそわしている様子だった。僕が「行ってみようか」と言うと千紗は何度も深く頷いた。完全に崩れてしまっている入場ゲートを迂回して、僕たちは中に入った。

 歩いていて最初に目に入ったのは動物の形をした乗り物だった。パンダ、ライオン、コアラ……だろうか? 見た目からは判別が難しい生物だった。千紗は「かわいい!」と言ってパンダの乗り物に飛び乗った。もちろん動くはずもない。千紗はパンダに跨った足をぶらぶらとさせながら、その頭を撫でて楽しんでいた。……これで喜ぶのはもう少し小さな子ではないのか? と思った。妙に物分かりがよく、大人びていると思う反面、かなり子供っぽいと感じる面がある。今まで満足に遊べなかった反動だろうか。少しして、パンダから降りた千紗は「ばいばい」と動物たちに手を振った。

***

 観覧車の足元まで来た。大きな輪は支柱から外れていて、ゴンドラも半数ほどは地面に落下していた。……これでは楽しめる要素はないなと思っていると、千紗は僕の袖をちょいちょいと引っ張って「中に入ってみたい」と言った。周りで一番綺麗そうで、横倒しになっていない物を選んだ。近くで見てみると、底はある程度平らにはなっていたものの、少し不安定そうだった。

「入ってもいいけど、中であまり暴れないこと」

「暴れたりしないよ!」

 失礼だと言わんばかりの表情で彼女は答えた。

 座れる場所だったので昼食にすることにした。千紗に果物の缶詰を渡す。千紗は「やった!」と言って嬉しそうに受け取った。味気ない物が多い保存食のなかで、缶詰はご馳走だった。ここ最近では缶が腐食してしまって食べられなくなった物も多くなっていた。僕は家族で遊園地に行ったときの思い出を食べた。休日の遊園地に流れるあの独特の空気感が好きだった。日々の喧騒とは違った、みんなどこか穏やかな騒がしさ。そんな光景は今や見る影もなく、しんと静まり返っていた……千紗を除いて。

「遊園地はどんな場所か」

「どんな乗り物があるのか」

「ここ以外にも遊園地はあるのか」

 ――そんな質問を僕に投げかけながら果物を頬張っていた。

 次に千紗が目を付けたのはメリーゴーランドだった。……これこそ動かないと楽しくないのではないか? そう思ったが千紗は乗りたいと言った。少し高さがあったので抱きかかえて乗せる。馬の頬を撫でながら彼女は言った。

「いつか本物の馬に乗ってみたいな」

 昔であれば叶う可能性が十分にあったかもしれないことも、今の世界では絶対に叶わないものだった。僕は返答に困り、「僕もいつか乗ってみたいな」と答えた。千紗はこちらを向いて「そのときは一緒に乗ろうね!」と笑い掛けた。この言葉は彼女の大人びた一面なのだろうか……子供らしい一面なのだろうか……。僕には分からなかった。

***

 少し歩くと、綺麗に整列されたコーヒーカップが見えてきた。千紗はその形を不思議そうに観察していた。褪せてはいるが、様々な色の物が並んでいた。雨ざらしになっているカップの中は泥まみれになっており、まるで本当にコーヒーを入れた跡かのように見えた。……これなら動くかもしれないな。座席部分にべっとりと堆積した泥を手で落として、千紗に座るよう促す。彼女に続いて僕も腰を掛けた。

「これは机と椅子?」

 千紗が聞いてくる。

「いや――」

 僕はコーヒーカップのテーブルを掴み、回そうとするが……動かない。経年で錆びているのだろうか。深く掴み直して、力いっぱいに回すと軋むような音がして動き始めた。千紗は「おお!」という声を上げて、コーヒーカップと共に回転し始めた景色を見回している。一度動き始めたら力を入れなくても回すことができた。

「千紗もやってごらん」

 僕が言うと小さな手でテーブルを掴んで回し始める。段々と回転速度が上がっていく。かなりの速度に達すると千紗は手を放して両手を上げ、「きゃあ!」と楽しそうに叫んだ。

 カップはしばらくの間回り続けたあと、ゆっくりと静止した。千紗は小さな声で言った。

「気持ち悪い……」

 ……僕も同じだった。僕たちはテーブルに突っ伏したまま、しばらく動けなかった。思えば乗り物酔いとは無縁の生活をしていたな……。

***

 二人とも歩けるようになってから他の場所も見て回ったが、完全な廃墟ばかりだった。そうこうしていると日が暮れ始めた。随分陽が落ちるのが早くなった。もう夜は冷える季節になってきたので、少しでも暖をとれる場所に行かなければ。今まで巡ったなかで、最も状態の良かった建物に戻る。

 お化け屋敷だった。ただでさえ暗い造りになっているところで、照明は僕たちが持っている灯りだけ。病院の廊下や病室を模して造られた空間は不気味と言われれば不気味だったが、こんな世界でお化けがどうといった話を真剣に考えるのは馬鹿らしかった。いつも薄暗い場所でも行動しているし、千紗も平気だろうと思っていたのだが……かなり怯えているようだった。

「怖いものは何もないよ」

「わかってるけど……」

 彼女は僕の手を掴んで離さなかった。奥まで入る必要はないので、風が当たらない程度のところまで進んで荷物を広げた。今日もよく歩いた。

「夕食にしよう」

 僕がそう言って食べる物を渡したあとも、何かいないかを確認するように、しきりに辺りを見回しながら警戒していた。

 そんな千紗を見ていると怖かったときの記憶を思い出す。「行きたくもないのに無理やり連れて行かれた肝試し」「小さい頃にたまたまテレビで流れていたホラー映画」「祖父の家で眠るときに目が合う位置に置いてあった日本人形」思い出すとともに、それらを食べることにした。おいしい記憶ではなかった。

「そろそろ寝ようか」

 僕が二つマットを敷いて、寝床を作る。千紗は敷かれた自分のマットを抱え上げて、「近くで眠ってもいい……?」と聞いた。そんなに怖いのだろうか。「構わないよ」と僕が言うと端をぴったりと横につけて敷いた。千紗と一緒にいるようになってから、酷く一日が長く感じる。生きるためだけだった日常が少しずつ変わっていくような気がした。

 翌朝、外はすっかり明るくなって、暗幕が破れたお化け屋敷には光が差し込んでいた。千紗は怖がっていた割にはよく眠れたようだった。支度をしてお化け屋敷をあとにする。

 遊園地を抜けて出る途中で立ち寄った建物は、連なった鏡がいくつも設置されているアトラクションだった。ひびが入った鏡を見て思った。

 ――ああ、今の僕はこんな顔をしていたのか。

 曖昧だった記憶の中よりも酷く痩せていることだけは分かる。千紗が背後から映り込んでくる。

「わあ、鏡!」

 そう言うと彼女は指を使って、怒った顔や笑った顔、変な顔をして遊び始める。僕はその様子を眺めていた。鏡越しに僕と目が合った千紗は満面の笑みで僕に笑い掛けた。

 ――そんな彼女を見ていた――鏡に映った僕の顔は少し笑っていた。

『ネックレス』
ある朝、がさがさという物音で目が覚めた。まだ重い身体を起こして、音のする方向に目をやる。千紗が焦った様子で荷物を漁って、辺りをきょろきょろと見回していた。

「どうした?」

 僕が聞くと静かな口調で「ネックレスがないの」と言った。千紗がいつも大事そうに身に着けていたネックレスだ。

 僕も自分の荷物や周囲を確認したが、見当たらなかった。しばらく二人で近くを探しても見つからずにいると、千紗は数秒間考え込んだあと、何かを思い出したように「探してくる」と言って走り出してしまった。

「ちょっと待て!」

 僕が声を掛けても千紗は止まらず行ってしまった。さっきまでネックレスを探していたせいで、鞄からひっくり返してしまっている荷物と、床に敷いていた二人分のマットを急いで鞄に押し込んでから追いかける。まだ姿は見えるが、かなり遠くだった。全力で走って追いかけるが、なかなか追いつけない。――あんなに足が速かったのか。昨日歩いてきた道には崩れかけた大きなダムがあり、かなり危険な道のりだった。

 ――嫌な想像ばかりしてしまう。今まで多くの死体を見てきた。瓦礫の下敷きになったもの、転落死したもの、溺死したもの――その中には子供の死体だっていくつもあった。千紗がそんな姿になってしまうのを頭でイメージしてしまう。走っていてただでさえ速い心臓の鼓動がいっそう速くなり、こんなにも身体を動かしているのに、背筋が冷たくなるのを感じる。千紗はダムに差し掛かるところまで来ていた。

「千紗! 止まるんだ!」

 息が上がっているなか、喉からなんとか声を捻り出す。しかし、千紗は止まらず、走って進んでいった。

 なんとか追いついたときには、千紗は僕には目もくれず、前屈みで泣きながらネックレスを探していた。

「何してるんだ!」

 僕は声を荒らげて言った。こんなに大きな声を出したことが今まであっただろうか。彼女は身体をびくっとさせてこちらを見た。肩を両手で掴んで続ける。

「もしも怪我をしたらどうするんだ。僕がどれだけ心配したか分かってるのか。言ってくれればネックレスは一緒に探した。なんで話を聞いてくれなかったんだ」

 千紗は大粒の涙を溢しながら「ごめんなさい……ごめんなさい……」と言うばかりだった。責めても仕方ないことは分かっている。……それだけ大切な物だったということも。僕は怒っているのではなかった――怖かったのだ。千紗がいなくなってしまうのではないかと、ただ心配で仕方なかったのだ。僕が伝えたいのは怒りではない。掴んだ肩をそのまま抱き寄せて「本当に無事でよかった」と言った。千紗は「ごめんなさい……ごめんなさい……」と小さな声で繰り返していた。僕には忘れていた感情がいくつもある。

 その後、道中を含めて、二人でかなりの時間探したが、結局ネックレスは見つからなかった。千紗が最初に探していた場所が一番見つかりそうだったのだが、水路が近くにあり、落ちてしまった可能性が高かった。……常に肌身離さず持っていて、ことあるごとに握りしめていたネックレス。本当に大切にしているのは誰が見ても分かる。

 探し終わったあとも、ずっと悲しい顔をしていて、今はないネックレスを握りしめるように胸元に両手を重ねて俯いている。それでも申し訳なさそうに彼女は言った。

「ごめんなさい。勝手なことして……」

 持ち前の行き過ぎた気遣いは、普段の様子からは想像できないほどに大人びていて、悲しげだった。

「僕のほうこそごめん。怒鳴ったりして」

「それだけ心配してくれてたんでしょ?」

 少し笑顔を作って彼女は言った。

 これが正解なのかは分からないが――僕は鞄の奥にしまっていた二つの指輪を取り出した。父と母の形見の指輪。宝石こそ付いていないが、おそらくプラチナ製だった。定期的に磨いていたため、銀色に輝いている。

「代わりになるなんて思っていないけど……これを」

 僕はそっと千紗の手を取る。小さな手と指を見るに薬指ではサイズが合わなさそうだった。人差し指を選んで指輪をはめる。

「僕もこうして――」

 僕は自分の薬指に指輪をはめて見せる。

「僕が大切にしている指輪。お揃いだ」

「ずっと一緒にいられる約束の証」

 彼女は手を掲げてはめられた指輪をしばらく見たあと、胸元に手を置き、指輪に手のひらを重ねてぎゅっと握りしめた。

「ありがとう……絶対大切にする」

 いつものはしゃいでいる喜び方と違って、何かを噛み締めているようにも、痛みを和らげようとしているようにも――諦めようとしているようにも見えた。

 日が落ちるころには大分落ち着いたようだった。

「ごめんなさい……時間をとらせちゃって」

 千紗はまた謝った。

「気にしなくていいよ。大事な物だったんだろう」

「……うん、昔お母さんがくれたの」

 僕は返す言葉に困った。

「そうだったんだね。……でもこんなことはもうしないでほしい」

 千紗は少し考えたあと言った。

「この指輪を失くしたときはまたやっちゃうかも……?」

「それは困る――」

 僕が言い切る前に「嘘だよ」と彼女は言った。こちらの心配をよそにくすくすと笑う。

「もうしないよ。”この指輪をくれた優斗くんは”今もここにいるから」

 彼女はにっと笑って見せた。

『ショッピングモール』
田舎には不釣り合いな大きさのショッピングモールに到着した。ショッピングモールなどの大型商業施設には必要な物が多くあるため、非常にありがたかった。まだ食べられる物が残っていることは稀だったが、日用品全般の補給ができる場所は限られている。

 ――昔よく行っていたショッピングモールを思い出す。休日には大勢の人がいて賑わっており、子供たちの遊んでいる声が印象的だった。千紗に目をやる。特に何もなくてもご機嫌な彼女は、あの頃の子供たちと似た表情をしていた。表情こそ良いものの、その格好は実にみすぼらしいものだった。大き目のシャツに褞袍を羽織り、裾を折って上げたジーンズを履いている。その上にぶかぶかのダウンコートを着ている。千紗の服は立ち寄った民家で、着られそうなサイズの物を適当に見繕って着させていた。……子供服売り場あるかな。

 瓦礫を避けながら歩いていると、それらしき場所を見つけた。汚れている物も多いが、まだ着られそうな物も残っていた。

「好きな服を選んでいいよ。いくつか持っていこう」

 そう僕が言うと一度嬉しそうな顔をしたあと、少し考えてから

「……荷物にならない?」と気遣った。売り場の一角に置かれていた子供用の鞄から大き目の物を選んで手渡す。

「じゃあこれに入れて千紗に持ってもらおうかな」

 子供の衣類ならそこまで重くないはずだ。もし辛そうなら僕が持てばいい。千紗は「わかった!」と言って物色し始めた。

 楽しそうにしている千紗を見ながら思い出す。いつも出かける前に時間をかけて鏡の前で何度もポーズをとっている母を――

「まだ決まらないのか」

 時計をちらちら見ながら父が呆れたように言う。

「もう少しで一番良いのが決まりそうなの」

 僕が「誰に見せるわけでもないのに、何が楽しいんだ?」と聞くと「好きな服を着ているだけで気分が良いし、自分をもっと好きになれるのよ。あなたにもそのうち分かる日が来るわ」そう答えながら微笑んでいた。

 ……僕にその日は結局訪れそうにないが、千紗には訪れれば良いなと思う。楽しいからかけ離れた世界で、少しでも日常を彩ることができれば良い。

 千紗は鞄をぱんぱんにして戻ってきた。

「……ちょっと多すぎるから減らそうか」

「……わかった」

 自分でも少し多いと思っていたのか、僕の言葉をすぐに受け入れた。洋服をいくつか戻した彼女は言った。

「着てみていい?」

「もちろん」

 千紗は少し離れた物陰に隠れて着替えた。戻ってきた彼女はブラウンのベストに白いロングTシャツ、デニムに黒いスニーカーを履いていた。服装だけ見ると大人のようだった。これがおしゃれなのか僕には分からなかったが、少なくとも着替える前とは見違えるほど変わっていた。

「とても似合っているよ」

 彼女は両手を合わせて喜んだ。

「他のも着てみていい?」

「……それはやめておこう。風邪を引くといけないから」

 気温が低い中、何度も着替えさせるのは避けたかった。彼女は残念そうにしながら次の提案をしてくる。

「じゃあ、この傘を使ってみたい」

 淡い青色に白い水玉模様の入った傘だった。ちょうど外は雨が降っていた。僕が悩んでいると「お願い」と両手に傘を持ちながら言った。

「濡れて身体が冷えないように――」

 僕は、千紗に傘と似た色合いのポンチョ型のレインコートを着せて、同じく似た色合いの深めの長靴を履かせた。

 千紗は外に向かう途中もスキップをしていた。傘を使うのが楽しみで仕方ないようだった。――僕も昔、新しいサッカーシューズを買ってもらって、一刻も早く履いて走り回りたかったときのことを思い出す。

 千紗は傘を大きく広げ、外に出る。ナイロン製の傘で撥ねる雨粒の音は、冷たいコンクリートに打ち付けられた雨音よりも少し暖かく感じた。千紗は傘を回したり水溜まりを蹴飛ばしたりして遊んでいた。遊びながら彼女は鼻歌を歌っていた。僕が教えた歌だったが、少しアレンジされていた。僕も水溜まりを一つ、足で払った。しばらくすると満足したようでモールの中に戻った。

***

 日用品を集めながら、食料が残っていないか探していると、なぜか千紗は紳士服に興味を持った。こんな世界になっても整然と立ったままでいるスーツを着たマネキンを見て、「着てみたい」と言った。

「身体が冷えるから――」

「服の上から着るから」

 僕が拒否する前にそう言った。

「……それなら」と着るのを待っていた。今の服の上から着るにはタイトだからか、もたついていた。仕方ないので手伝う。

 ……出来上がったのは驚くほど滑稽な姿だった。シャツの袖もパンツの裾もぶかぶかで、上着の裾は膝上あたりまであった。僕は笑ってしまいながら、仕上げに千紗のネクタイを締めた。

「なんで笑うの」

「ごめんごめん」

 その姿は酷く滑稽であるとともに、可愛らしいものでもあった。

 スーツを脱ぎ捨てたあと、再び辺りを見て回った。元気そうにしていた千紗は、途中からしんどそうにし始めた。

「大丈夫か?」

「うん……大丈夫」

 そう答える姿も元気がない。――額を触ると熱かった。

「少し休もう」

「……うん、ごめんね」

 やはり遊ばせるべきではなかったと思った。

「気にしないで。僕の責任だから」

 その場にマットを敷いて寝かせる。歩いている道中にドラッグストアがあったはずだ。

「少し待っていてくれ。薬を取ってくる」

 僕は走って向かった。

***

 びっしりと薬や日用品が並べられた棚はいくつか倒れており、商品は辺りに散乱していた。またこうなったときのために、多めに取っていこう。僕はよくテレビで宣伝されていた風邪薬と解熱鎮痛剤を鞄に突っ込んだ。

 走って戻ったときには千紗の症状は酷くなっていた。顔は紅潮し、息も荒い。額に手を当てるとさっきよりもずっと熱かった。

「薬を取ってきたから飲もう」

「……うん、ありがとう」

 彼女は身体を少し起こして薬を飲んだあと、すぐにまた横になった。

 ……一時間ほど経っただろうか。薬はそろそろ効いているはずだが、一向に症状はよくなっていなかった。僕は焦っていた。これより悪くなったらどうする?風邪ではなく重い病気だったら? 今の世界に満足な医療が受けられる場所なんてない。思いつくのはどこかで聞いたような当てにならない民間療法だけ。僕に何かできることは――

「……優斗くん」

 千紗が口を開く。

「どうした?」

 驚いた僕はいつもより大きな声が出る。

「手、握ってほしい」

「分かった」

 僕は両手で千紗の手を握った。――いつもよりずっと熱い手のひらの中で、指輪の冷たい感触だけが伝わってくる。

***

 優斗くんといるといつも楽しい。今日もすごく楽しかった。いろいろな服を選んで、着て、かわいい傘をさして外で遊んで、かっこいい服を着せてもらって。……優斗くんは笑ったけど。

 嬉しくて楽しくて、ふわふわした感覚だったのが、だんだん頭がぼーっとしてきた。薬を飲ませてもらったが、なかなかよくならない。身体が熱くて頭も痛い。目を開けて優斗くんを見ると、わたしよりも辛そうな顔をしていた。わたしは優斗くんにお願いをした。

「――手、握ってほしい」

「分かった」と優斗くんは両手でそっと私の手を握ってくれた。暖かい手……。それだけでわたしはとても安心できた。全てから守ってくれるような感覚があった。しばらくその手の感触に浸ったあと、わたしは微睡みながら昔のことを思い出す。

 まだみんな家にいたころ、わたしはどこかから帰った途端に熱を出したことがあった。体調を崩すことがあまりなかったわたしが動けないほど弱っているのを見て、お父さんもお母さんもすごく心配そうにしていた。優しく手を握って「すぐによくなるからな」と言ってくれた。

 昔はお父さんもお母さんもよく笑っていた。お家にいられなくなって、わたしが泣いていたときも「千紗ちゃん大丈夫だからね」と笑いかけてくれた。それでも不安そうにしているわたしを見て、お母さんは自分のネックレスをわたしにくれた。青い宝石が付いた銀色のネックレス。とてもとても綺麗だった。

「これがあなたを守ってくれるわ」

 お母さんはそう言って、強く抱きしめてくれた。

 お家にいられなくなってしばらくして、少しずつ二人は笑うことが少なくなった。二人が笑えない分、わたしが笑顔でいなければと思った。だけどあるとき言われてしまった。

「千紗は気楽そうでいいな」

 だんだん二人の心がわたしから離れていくのがわかった。わかったけど、どうしようもなかった。二人が望むような振る舞いをしているつもりでも、うまくはいかなかった。

 あるときわたしはまた熱を出した。お父さんとお母さんは、ごはんは置いてくれたけど、それだけだった。……きっとお父さんとお母さんのほうがわたしなんかよりずっと辛いんだ。そう考えながらわたしはネックレスに触れて、ただ目を瞑って時間が過ぎるのを待っていた。

 お父さんとお母さんは喧嘩をすることがすごく増えた。”気楽そうに見えるわたし”が何か言っても状態は悪くなるだけだった。わたしは邪魔にならないように少し離れたところで小さくなるしかなかった。わたしはネックレスに付いた宝石を握りしめて小さく唱える。

「きっと大丈夫……大丈夫……」

***

 ……数時間が経った。ずっと苦しそうにしていたが、眠ってからは徐々によくなっていった。現在は熱も引き、静かに寝息を立てている。薬が無事に効いたようで本当によかった……。本当に……本当に……。僕は自分が泣いていたことに今になって気づく。僕の顔も、握っている手も、びしょびしょになっていた。僕にとって、彼女の存在は信じられないほどに大きいものだと気づかされた。

 千紗が目を覚ます。

「優斗くん、大丈夫? 泣いてるの?」

「とても心配していたんだ――」

 僕は千紗を抱きしめた。

 目が覚めたときには体調はかなりよくなっていた。優斗くんはずっとわたしの手を握ってくれていた。わたしは全然怖くなかった辛くなかった。ぜんぶ優斗くんのおかげだ。……こう思うのはきっとよくないことなんだけど、わたしのために泣いてくれたのが何より嬉しかった。

 起きてからごはんを食べたら、すっかりよくなった。もう動けると言ったのだけど、安静にしないといけないと、今日はここで泊まることになった。

 寝るとき、遊園地のときみたいに、真横で寝させてもらった。優斗くんの手を握る。優斗くんは優しく握り返してくれる。わたしは反対の手の指にはめられた指輪を見た。そして小さく小さく唱えた。

「何か言った?」

「なんでもないよ!」

 ――わたしはきっともう大丈夫。

『かみさま』
歩いていると千紗が遠くを指差す。山の中腹に鳥居が見えた。幸い今は食料に余裕があった。

「行きたい?」

「もちろん!」

 千紗は元気よく答えた。

 ……これは結構遠いぞ。

***

 わたしは山のなかに変わった物を見つけた。優斗くんによると、それは鳥居というらしい。鳥居は神社にあるらしい。神社まで歩きながら優斗くんにいろいろ教えてもらう。境内、手水、賽銭、おみくじ。優斗くんは物知りだ。神社に続く長い階段を登ったところに犬のような動物の像があった。狛犬という名前らしい。なんでも神社を守っているのだとか。――お利口な犬だ。

***

 神社に到着した。目測通り遠かった。鳥居をくぐって入った境内のなかは、今でこそ荒れ果てているが、元は綺麗な庭園であったことが想像できた。大きな池には蓮の葉が浮いていて、朱色の欄干を備えた橋が崩れて沈んでいた。あちこちに雑草が茂っているなかで、参道の脇には水仙が咲いていた。

 広い境内を歩いて回る。ただでさえごく普通の神社にはそれほど見る場所がないのに、多くの建物が倒壊していて、歩きながら昔の話をするくらいしかやることがなかった。

 特に千紗の興味を引いたのは縁日の話だった。たくさん並んだ屋台の話――金魚すくい、射的、型抜き、いろいろな食べ物の屋台。そのどれもが子供の頃は楽しかった記憶がある。僕は現状と昔を比べてしまって、昔の楽しげな話をするのはあまり気が進まなかった。しかし、千紗は楽しかった話をたくさん聞きたいと言った。

「わたしも行ってみたかったな」

 そう言った彼女にできることはないかと考える。

「遊びをしよう。ここに鞄を置く。遠くから石を投げて鞄に当たったら一点、鞄に入ったら三点。僕と五回ずつ投げて、得点の多かったほうの勝ちだ」

 説明していてあまり楽しそうではないなと自分で思う。せめてもと「負けたほうは勝ったほうのお願いを一つ聞くこと」と付け加えた。

「わかった!」

 千紗は石を集め始めた。彼女は勘が鋭いので、手加減をすれば看破されてしまう。……普通にやるか。

 ……完敗した。小さい頃、輪投げの屋台で全て外した僕を憐れんで、店主がおまけをくれたことを思い出した。僕が二点、千紗は六点だった。千紗はいつになく真剣に取り組んでいた。

「お願いはなんなんだ?」

「わたしのお願いは……優斗くんのお願いを一つじゃなくてたくさん聞いてあげること!」

「それはお願いなのか?」

 僕の発言は無視して続けた。

「何かお願いある?」

「そうだな……僕も千紗と同じで千紗のお願いをたくさん聞いてあげることかな」

「それじゃあ意味ないじゃん! せっかく勝ったのに……」

 千紗はむっとしていた。

 神社に来るのに時間がかかったこともあり、辺りは夕焼け色に包まれていた。ほぼ全ての建物が崩れているなか、立派な本殿だけは驚くほど綺麗に残っていた。神の加護だとでもいうのだろうか。……もっと守ってほしいものは数多くあった。

「今日は本殿で泊まろう」

 千紗を連れて大きな本殿に入ってみると、いかにもな古びた木造建築で、なぜ倒壊していないのかが不思議でならなかった。

 こんな世界になっても根差した価値観というのは根深いようで、あまり軽率なことをすると罰が当たるような気がした。

「そこら辺にある物は触らないように」

「なんで?」

「神様が怒るかもしれないから」

「かみさま?」

 どう説明するか迷った。神様――豊かさの象徴や、守り神のような印象があった僕だが、今の世界に豊かさはなく、神様は何も守ってはくれなかった。

「……良い子にしていると願いごとを叶えてくれるんだよ」

 千紗は感心したように言う。

「かみさまってすごいね!」

 こんな世界にもう神様がいるとは思えなかった。もしいたとしても、世界をこんなにしてしまった僕たちを救ってはくれないだろう。それでも小さなこの子にとって、縋れるものはあるに越したことはないと思った。そのあとも神様について彼女はいくつか聞いてきた。

 座ると一気に疲れが身体にのしかかった。今日はよく歩いた。千紗も疲れたようで、その場で横になって眠りかけていた。「風邪を引くから」と言って、寝床を準備してから寝かせる。……眠い。僕も少し寝よう。

***

 ――わたしは夜中に目が覚めた。扉の隙間から光が漏れているのに気づく。音を立てないようにそっと扉を開けて外を見る。雲の隙間から月が覗いていて、雪がちらちらと風に揺られながら降っていた。宙を舞う雪は月明かりに照らされて、淡く輝いていた。その景色はとても綺麗で、なんとなくかみさまがいるような気がした。

 優斗くんの言葉を思い出す。かみさまは願いを叶えてくれると。願いを叶えてくれるかみさまには、いろいろなものをあげるらしい。その一つに神楽という踊りがあると優斗くんは言っていた。わたしは大きな木で出来た扉を少しだけ開けて外に出る。

 わたしは足元の地面が滑らないことを確認して、踊ってみる。……神楽ってどんな踊りだろう? 分からないけどかみさまのことを考えながら、わたしは踊った。空中を滑らせる手に雪が触れて少し冷たい。踊り終えたあと、指輪を包むように両手を胸に重ねて、かみさまにお願いをする。

 ――優斗くんとずっと一緒にいられますように。

***

 ……すぐ起きるつもりだったが思ったより寝てしまった。外から薄明かりが差していた。千紗を起こして食事にするべきか考えていた――千紗がいない! 

 焦った僕はすぐに外に出る。すぐそこに千紗はいた。……よかった。舞う粉雪、雲間からの月明りを背にして、こちらを向く千紗は普段の雰囲気とは違い、幻想的だった。雪月花という言葉が頭に浮かぶ。夢のなかにいるような感覚だった。

「どうしたんだ? こんなに寒いのに外に出て」

「ごめんなさい。雪が綺麗だったから」

 たしかに綺麗だった。これまで雪や雨なんて移動するのに邪魔になるだけの存在だった。景色が綺麗だと思ったのはいつ以来だろう。

「謝らなくていいよ。遠くに行ったり、危ないことをしなければ」

「うん」

「お腹が空いただろう。食事にしよう」

 薄ぼんやりした月明かりの下で、神社の本殿から外の様子を見ていると、遠くから祭囃子が聴こえてきそうな気がしてくる。昔のことを思い出す――ある日の縁日の記憶。交わした会話も覚えている。「隣のクラスの子の浴衣姿が可愛いらしい」だとか「射的が上手いから将来は猟師になれる」だとか「――来年もまた来よう」だとか。そんなくだらない日常の一片。ふと千紗には浴衣が似合うだろうなと思った。……スーツと違って。いくつかあった縁日の、お祭りの記憶を僕は静かに食した。

 翌朝、うっすらと雪が積もっていた。今年の積雪は初めてだろうか。もっとも、今が何月なのかも分からないが。

 雪で遊んでいる千紗を見て――僕は賽銭も投げず、手すら合わせることなく目を閉じて少し俯き、祈る。神様がまだいるなら、どうか……どうかこの子だけは少しでも幸せに生きられるように見ていてあげてください。

 千紗は僕に雪玉をぶつけた。

『春』
優斗くんと迎えた二度目の春。

 長い河川敷を歩いていると、花が咲いた木が見えてきた。桜というらしい。桜はあまり丈夫ではないので珍しいと優斗くんは言う。植物としてそれほど強くない桜が残っているのは初めて見た、と。

「とても綺麗」

 桜に近づいて花を見てみる。桜の花は綺麗な淡い桃色をしていた。

 優斗くんが昔の話をする。昔は桜がもっとたくさん咲いていて、人々が集ってご飯を食べ、お酒を飲んでいたらしい。

「僕らも一緒にご飯を食べようか」

 優斗くんは言った。

「優斗くんは食べないじゃん」

「たしかに、そうだね」

 彼は笑った。

 昼食を終えて、桜の木から離れるとき、彼は木の幹に手を当てて何かを考えていた。

「どうしたの?」

「いや……この桜はあと何年くらい生きられるのだろうと思って」

「桜、死んじゃうの?」

「さっきも言ったけど桜はあまり丈夫じゃない。花は咲いているけど五分咲き――花が半分くらいしか咲いていない」

 彼はなぜか不安そうな顔で言った。

「長く生きられるといいね」私が言うと彼は「そうだね」と桜を見上げながら言った。

 強い風が吹いて、桜の花びらがいくつか舞った。

***

 優斗くんと行動し始めて三年ほどが経った。

 優斗くんのことも結構分かってきた。彼が不器用なこと、忘れっぽいこと、よく笑うこと、優しいこと……意外に意地悪なこと。

 私たちは湖に到着した。今まで見たこともない大きさの、とても広い湖だった。

「ここで昼食にしよう」

 彼はそう言って、地面にシートを広げて、私に食料を手渡す。

 湖をぼーっと眺めている彼は、昔のことを語りだす。

「昔は四年に一度だけ、大きさが数メートルはある首が長い生き物が湖に大量に現れていたんだ。みんなそれを見に行くのを楽しみにしていた」

 私は今では見られない光景を想像した。たくさんの人が湖のほとりに集まって、大きな生物を観察している姿を。

「すごい! 優斗くんも見たことあるの?」

「……全部嘘だよ」

 彼はいたずらっぽく笑った。

「昔のことで嘘つかれたら分かんないよ」

 私は軽く怒る。

「ごめんごめん、ちゃんと嘘のときは嘘って言ってるから」

 彼はまた笑った。

「前も大きな雷が鳴っていて私が怖がってるときに『雷はたまに地面に落ちるから雷が鳴ったときは地面からジャンプして避けないと危ない』なんて言って。雷が治まるまで嘘だって教えてくれなかったし、教えてくれたときには大笑いしちゃって」

「そうだっけ?」と彼は嘯く。

「忘れちゃったの?」

「”僕はあまり記憶力が良くないんだ”」

 彼は笑顔のまま言った。彼はよくそう言う。

「もう、忘れっぽいんだから」

 彼は会話の内容や細かな出来事をよく忘れる。それ以外はよく覚えていた。私と会う以前のことも。

「だからいつも日記を書いてるの?」

「それもあるよ」

 いつも彼からいろいろな話を教えてもらってばかりだ。

「私が代わりに覚えておいて、忘れたときには話してあげるから安心して!」

 彼はそれを聞くと「頼りにしてるよ」と優しく笑った。

***

 優斗くんと旅をして四年――四度目の春。

 私たちは大きなショッピングモールに着いた。私たちは二手に分かれて探索をする。別れ際に優斗くんは言う。

「絶対に無理しないでくれ――」

「分かってるよ」

 少し前から私たちは時折別行動しながら探索をしていた。最初に提案したとき、彼は乗り気ではなかった。しかし、ちょうど食料のストックが少なくなっていたので、「食料がなくなったらどうしようもなくなる」と説得して、渋々ながら承諾させた。

「くれぐれも無茶はしないでくれ」

 彼は別れる前に必ずそういったことを言う。

 辺りをうろうろしていた私は紳士服の店を見つけた。昔のことを思い出した私は、優斗くんを探して呼んでくる。

「どうしたんだ?」

「ちょっと待っててよ」

 私は物陰で急いでスーツに着替える。

「じゃーん」

 スーツを着た私は腰に手を当ててポーズを決める。

「今回は女性用もあったのになんで男性用のスーツなんだ?」

「前回のリベンジだよ――どう? 似合うようになったでしょ? 昔笑ったの忘れてないんだから」

 彼は優しい笑みを浮かべながら「うーん、サイズが合ってないね。それに――やっぱりあまり似合わないな」と言って、前と同じようにネクタイを締めてくれた。

「……また数年後、見ててよね。絶対にスーツが似合うような大人になるんだから」

「期待してるよ」彼は茶化すように言った。

 結局一緒に行動することにした私たち。私はあのときのことを話す。

「ショッピングモールで、私熱を出しちゃったことがあったよね」

「そうだね、あのときは――」

 これを話すと彼はいつも「楽しそうにしていたから遊ばせすぎた」「もうどうしたらいいか分からなかった」「心配で仕方なかった」「よくなって本当によかった」と当時の気持ちを語った。そして私は毎回その話を聞いたあと「優斗くん、泣いてたもんね!」とからかう。彼はばつが悪そうに「……それだけ心配だったんだよ」と言って少し視線を逸らす。私はそれを聞くと――思い出すと、とっても嬉しくなるので、今まで何度もこの話題を出した。

 私はこの瞬間が幸せで仕方なかった。彼にとってもそうだったら嬉しいと思った。

『日記』
大切な記憶を食べる瞬間はこんなにも辛い。これほど幸福な記憶を忘れてしまうのか。しかし、それと反して千紗との記憶は今まで食べたことのないほど美味だった。心が奥深くから満たされるような甘い味がした。……今日はなんだか調子が悪かった。日記をつけてから、その記憶の甘い味に溺れながら眠りに落ちた……。

 ある朝、いつも私より早く起きているのに彼は起きなかった。一向に起きる気配がなかったので、身体を揺さぶって起こす。

「もう昼になるけど」

 彼は目をゆっくり開けて答えた。

「少し体調が悪いかな」

 彼の額に手を当てると熱があるのが分かった。体力がなさそうに見えて、今まで起き上がれないほど体調を崩したことはなかった。私は急いで鞄から薬を取り出して飲ませる。

「自分で飲めるよ」

 彼は笑った。

「大丈夫なの?」

「大丈夫、大したことない」

 私は彼の手を両手で握る。

「前に私が熱を出したとき、ずっとこうしてくれていたよね」

「……そんなこともあったね。君が元気に大きくなってくれて本当によかった」

 彼は眠れなさそうにしていたので、私は歌を小さく口ずさんだ。彼の教えてくれた歌。彼は目を開けてこちらを見る。

「ごめん、うるさかった?」

「全然。続けてほしい」

 私は続きを歌った。最後まで歌い切ったあと、彼は口を開く。

「その歌、よく歌っていたよね。――”それはなんの歌”?」

 私は驚いてしまって、言葉を失う。そんな私を見て「どうかした?」と彼は言った。

「なんでもないよ! 体調優先! 目を瞑って寝る!」

 そう言って私は彼の手をぎゅーっと強く握った。

 少し経ったあと、彼は眠れたようだった。私は彼が起きないようにそっと手を離す。私はずっと頭のなかで同じことを何度も考えていた。……戦争が始まって何年も覚えていた歌を忘れる? 自分が歌ったことを? 私も定期的に歌っていたのに? いくら彼が忘れっぽいとはいっても、ここまでのことは今までなかった。

 彼は「恥ずかしいから」と言って日記を絶対に見せてくれなかった。

 なんだか嫌な予感がした。私はあとで怒られることを覚悟しながら、彼の鞄を漁って日記を取り出す。汚れてはいるが、装丁のしっかりした日記帳。適当なページを開く。……私は言葉を失った。そこには、一センチの隙間もなくびっしりと文字が埋められていた。単純な文章だけではなく、図や絵、注釈、矢印などが無数に引かれていた。

「これが日記……?」

 私は内容をよく見る。家族との思い出や私との記録が、時系列関係なく大量に書き込まれていた。特に、私との出来事には多くの説明が記してあった。ぱらぱらと日記をめくっていると、一ページ目の冒頭に下線が二重に引かれていた部分を見つけた。

 ◇◇日誌の目的:食べた主要な記憶を日誌に詳細に残すこと。記憶のことで千紗に心配をかけないこと。これは忘れないように

 ……記憶を食べている? にわかには信じられなかった。たしかに優斗くんは食事をとらない。何度か聞いたときは「そういう体質なんだ」と言っていた。いくら私が物を知らないといっても思うところはあった。――それにしても記憶を食べる? 彼は覚えていない? ここに書いてあることを全部? 理解がまったく追いつかなかった。おびただしい量の文字が敷き詰められたページは百にものぼり、それが三冊あった。

 適当なページの内容を見てみる。

「――冬:神社に寄った。背丈:胸より低いくらい。服装:ダッフルコート、白いカーディガン、お気に入り(?)の紺色のスカート。(神社の図)天気は夜中から雪に変わった。山上の神社。二時間ほど歩いた。境内を適当に散歩しながら千紗に縁日の話や神社にまつわる話をした。――縁日に行ってみたかったという千紗に何か遊びをできないかと考えた。石を投げて鞄に当たったら一点、鞄に入ったら三点という遊びを一緒にやった。負けたほうが勝ったほうのお願いを聞くという条件をつけて。僕は二点、千紗は六点で僕は負けた。あの子はなんでもできるな。◇『わたしのお願いは優斗くんのお願いを一つじゃなくてたくさん聞いてあげること』と言ってくれた記憶はこのときのもの。――その後は本殿に泊まった。罰が当たりそうな気がしたから本殿の物を触らないように言ったら、なぜかと聞かれたので、神様が怒るからと言った。神様はなんなのかと聞かれたので、『願いを叶えてくれる』存在だと教えた。その後は神楽など神様関係の話をした。歩き疲れた僕たちは食事もとらずにその場で寝た。夜中に目が覚めると千紗がいなくて焦った。外に出ると千紗がいた。――◇雪が降る月明りの下でこちらを見ている千紗の姿はこのときのもの。とても幻想的だと思った。夕食千紗:硬そうな乾パン。優斗: 。翌朝は雪が浅く積もっていた――」

 私は日記を読み続ける。

「――お気に入りの傘を見つけて、それを使いたいと言った。外は雨が降っていたので遊ばせた。◇青色の傘、レインコートと長靴を履いて、鼻歌を歌って遊んでいる千紗はこのときのもの。――寒い中、遊ばせてしまったせいで千紗は熱を出した。薬屋から薬を取ってきて飲ませたが、なかなかよくならない。――◇僕が泣きながら千紗の手を握って、千紗が目を覚まして『優斗くん、大丈夫?』と言っているのはこのときのもの。本当に、本当によくなってよかったと思った。」

 そこには食べた記憶と一緒に”残した記憶”についても書かれていた。

「――ペンダントを失くした千紗に指輪を渡した。◇千紗に母さんの形見の指輪をはめて、自分も父さんの指輪をはめた。僕が千紗に『ずっと一緒にいられる約束の証』と言ったのはこのときのもの。」

 その続きにこう書いてあった。

「この約束は守ってあげられるだろうか。僕があのとき想像していたよりもずっと難しそうだ。」

 私はそれ以上日記を読めなかった。放心状態になった私は日記に書いてあったときのことを、当時のことを漠然と思い返していた。……優斗くんはこれを全部覚えていないの?

 ――どれくらい時間が経っただろう。一時間? 三時間? よく分からなかった。優斗くんは目を覚ました。

「ありがとう。大分よくなったよ」

 そう私に声を掛けた彼は私の膝に置いてある日記に気づく。

「……見たのか?」

 彼は横になっていた身体を起こした。

「……見た。……記憶を食べるって本当なの?」

「まさか、君に見られたときのためのちょっとした冗談だよ」

 彼は照れたように笑った。

「……神社に行ったとき鞄に石を投げる遊びをしたよね」

「うん」

「どっちが勝った?」

「君だ」

「どっちが何点?」

「僕が二点、君が六点」

 私は点数まで覚えていなかった。

「私たちはどこに泊まった?」

「本殿だ」

「本殿で私に触るなって言った物は?」

「……覚えてない」

 神様の姿を掘った像だと言っていた。

「遊びの点数まで覚えているのに?」

「印象に残ることは僕と君で違うし。そういうこともあるだろう」

「――じゃあ、私がさっき歌った歌はなんの歌か分かる?」

 彼は黙った。私は優斗くんに最新のページを見せる。

「――音楽室でピアノを弾いている千紗はこのときのもの。そのとき僕が昔の歌を口ずさむと、千紗が聴いていた。僕は恥ずかしくて歌うのをやめたが、千紗が歌えというので歌った。そのあと千紗は”僕が歌った歌”を歌ってくれた。音楽室で歌を歌っている千紗はこのときのもの。以後、定期的に千紗はこの歌を歌ってくれた。そんなに好きではない歌だったが今では好きになれた。」

「ここ、まだ読んでないんでしょ? あれは”あなたが教えてくれた歌”」

 彼は黙ったままだった。

「ずっと記憶を食べてたの?」

「……うん」

「なんでこのこと教えてくれなかったの?」

「……記憶を食べられることに、あまり良い思い出がないんだ」

 ピンとこない私に彼は続けて言った。

「……二冊目の六十五ページ」

 私は二冊目の日記を手に取って、彼の言ったページを開いた。そこには優斗くんのお母さんの最期が記されていた。彼を思うが故に、彼を深く傷つけたお母さんの話。それは私の経験した別れとは違う辛さを孕んでいた。

「こんなことが……」

 ……私と出会ったとき、優斗くんはお父さんと一緒にいた。彼のお父さんもこの最期に立ち会っていたはずだ。

「……もしかしてお父さんも何か関係あるの?」

 彼は答えない。

「言ってくれなくても、私全部見るから」

 数秒の沈黙のあと、彼は言った。

「……三冊目の十三ページ」

 私は日記帳を持ち替えて指定されたページを開く。そこには一度も話されたことのない真実が載っていた。何かあったのだろうとは思っていたが、まさかこんなことだとは予想もしていなかった。

「……優斗くんのお父さんが死んじゃったのって私のせい――」

「それは違う!」

 彼は強い口調で否定した。

「あれは父さんが勝手にやったことだ。君が気に病む必要は一切ない。止められなかった僕の責任だ。それに……今でも許せないけどあれは”間違いではなかった”とも思ってる。ああするしかなかったんだ」

「そんなこと――」と言いかけて、私たちが手に入れて、私が消費した食料の量を考える。間違いなく二人いたら足りていなかった。私一人でさえぎりぎりのことが何度もあった。

「……ごめんなさい」

 私はそれしか言えなかった。

「謝らないでくれ。父さんもそんなことは望んでいない」

 何もかも理解が追いつかなかった。そんななかでも私には一番気がかりなことがあった。

「記憶……もう少ないの?」

 彼は返答に困っていた。

「答えて」

「……かなり少ない」

「どれくらい?」

「……全部繋ぎ合わせて三か月あるかどうか」

「記憶が尽きたらどうなっちゃうの?」

 彼は答えない。

「どうなっちゃうの……?」

 こらえていたけど、私は泣き出してしまった。久しぶりに私は泣いた。

 彼は申し訳なさそうに答える。

「正直、僕にも分からないけど、食料がなくなるということは――」

 気づいたら私は彼の声が聞こえないくらいの大きな声を上げて泣いていた。考えただけでも辛くてたまらなかった。それが何を意味するのか信じたくなかった。信じられなかった。彼は私の肩に手を置いた。私の大きな泣き声のなかで微かに彼の声が聞こえた。

「悲しませてしまって、ごめんね」

 しばらく私は大泣きをしていて、彼はただ横にいてくれた。なんとか泣き声以外が出せるようになった私は言葉を捻り出す。

「どうして本当のことを話してくれなかったの?」

「君に辛い想いをしてほしくなかった……。結局、より辛い想いをさせてしまっているけど……」

「私が気づかなかったらどうするつもりだったの?」

 彼は何も言わない。しばらく黙ってから彼は「ごめんね」とだけ言った。その言葉は、どのように解釈しても私の望まない結末を彼が選ぼうとしていたことを意味していた。

 私は泣いて泣いて、泣き続けた。涙はいつまでも溢れ続けるが、ずっとこうしているわけにはいかない。

 まず私が考えたのは普通の食料を食べればよいのではないかということだった。彼に提案するが、「ダメなんだ。全部吐いてしまう」と言った。

「ときどき吐いていたのはそれが原因?」

「気づいていたのか……あれは――そうだよ」

 彼は少し考えてから言った。それでも私は諦めるわけにはいかなかった。

「私、優斗くんが食べるまで私も何も食べないから」

 優斗くんは浮かない顔をしながら「分かったよ」と言って缶詰と乾パンを平らげた。彼は普通に食事を食べた。私は少し希望を感じた。……もしかしたらこれで生きられるのではないかと。

「期待しないでくれ。ダメなんだ」

 彼はそう言うが、私は期待している。

 翌日の朝、彼は食べた物を全て嘔吐した。酷く辛そうにしながら。

 ――私たちの終わりが決まった旅が始まった。

『泣き虫』
あれから彼は記憶について話してくれた。大きな出来事の記憶のほうが食料としての量があると。私は少しでも彼の記憶に残る何かを探していた。

 彼を水場に突き落としたり、見つけた人骨を寝ている隣に並べたり、山に火を放ったり……私の裸を見せつけたりした。彼は驚きはしたけど、それだけだった。記憶に深く刻まれる出来事とはなんだろうか。私は優斗くんの思い出と同時に、お父さんとお母さんのことを思い出した。二人が歩いて離れていってしまう姿。私は必死に追いかけるが追いつけない。そして同じように優斗くんが遠くに歩いていき、いなくなるのを想像した。私の頬に涙が伝っていた。

 数日したあたりで優斗くんは言った。

「無理しないで。普通に一緒にいてくれるだけで、僕には十分すぎるくらいだから」

「普通になんか……できるわけないじゃん」

 私は泣いた。私はこんなに泣き虫だったのかと思った。

「優斗くんなんて大嫌い!」

 大きな声で、私は今まで一度も発したことのない言葉を放つ。心の片隅にも思ってもいない言葉。彼は困ったような顔をしながら、「無理しないでいいよ」と笑った。

 私は必死に記憶を辿った。他に記憶に残る何かはなかっただろうか。思い付く記憶は、優斗くんとの思い出ばかりだった。そんななかで、どこで見たのかも思い出せないが――男の人と女の人が唇を重ねている姿を思いだす。なぜか印象的だったことだけは覚えている。それを私は実行しようと彼の肩に手をかけて、彼の顔に私の唇を近づける。

「よせよせ」

 彼は私の頭を掴んで顔を遠ざけた。

「何も知らないでやっているんだろう?」

 彼の言葉の意味が分からない。

「何もって何が?」

「僕らには関係ない話だよ」彼は私の心配をよそに、笑った。

 彼はなんで笑っていられるのだろうか。私にできることは何もないのだろうか。また涙が溢れてくる。私はその場にへたり込んでしまった。彼の笑顔は悲しい顔に変わった。そして私に「ごめんね」と声を掛けた。……私は彼に悲しい想いをさせたいわけではないのに、彼に生きていてほしいだけなのに。ずっと一緒にいたいだけなのに。そんなときに口をついて出た言葉。

「私も死ぬ……私も優斗くんと一緒に死ぬ」

 そうすれば優斗くんはもう少し生きられる。私も一人にならないで済む。彼はさきほどよりも更に悲しい顔をして懇願した。

「それだけはやめてくれ……それだけは……」

 ――彼を泣かせてしまった。私は笑顔になってほしい人を泣かせている。一番幸せになってほしい人を泣かせている。そんなことを言えば彼が悲しむのも、望んでいないのも分かっていたはずなのに。それでも私は……わたしは――

***

 一つ、また一つと大切な思い出が消えていく。太陽の光に照らされて、虹色に輝くシャボン玉が一つずつ割れていくように。……この記憶は食べたくないなあ。そう思いながら記憶を味に変えていく。虫食いだらけになった記憶では出来事の時系列も分からなくなる。千紗の伸びた背丈から五年ほどは経っているのだろうと見てとれる。

 徐々に自分が自分ではなくなっていく感覚がある。僕はあるとき気づいた。記憶は命そのものだ。僕の記憶が完全になくなれば、それは僕ではなくなり、死んだのと変わらない。僕は自らの命を喰らって生きていたのだ。とはいえ、記憶を食べられるようになったことには結果的に感謝している。”僕のこれがなければ”、千紗とこれだけの間一緒にいられなかっただろう。

 日記を見てからというもの、千紗は僕にいろいろなことを仕掛けてきた。僕に記憶を残そうとしてくれているのだろう。千紗は失敗していると思っているようだが、千紗のその気持ち――僕のことを思って行動してくれたことは僕にとって、大きく記憶に残るものだった。

 ――千紗と出会ったころのことを思い出す。出会ったとき千紗は泣いていた。両親の話をしたときも千紗は泣いていた。しかし、その後は泣くことはほとんどなかったのだと思う。少なくとも記憶の断片にある彼女の泣いている姿はネックレスを失くしたときだけで、日記に記されている泣いた姿は、怪我をしたときくらいだった。……だけど今の彼女は毎日泣いている。僕が泣かせてしまっている。「ごめんね」と言うと彼女は余計に泣いてしまう。僕は彼女に笑顔でいてほしい。

 死にゆく僕が彼女にしてあげられることは何かあるだろうか。考えてみるが思いつかない。思えば僕はいつも貰ってばかりだった。こんな世界でも生きていられたのは彼女のおかげだった。僕にはもったいないくらいに幸せな日々だった。僕は彼女を守らなければと思っていたが、ずっと守られていたのは僕のほうだった。

「何かしてほしいことはある?」

 何も思い浮かばない僕は直接彼女に聞くしかなった。彼女はまた泣きそうな顔になる。

「……生きていてほしい」

 僕は本当に彼女を悲しませてばかりだった。

***

 ――数日後、僕は空腹のあまり歩けなくなった。その場で座り込む。

「優斗くん!」

 千紗は叫んだ。……優斗? 僕の名前か。頭では分かっているが、自分の名前の実感はもうない。

「……記憶、もうないの?」

 そう言いながら不安そうな顔をして僕の手を取る。

「ほとんど」僕が答える。

「……ほとんど?」と千紗は僕の言葉を繰り返した。

「全部は食べてないの? もしかして、日記に書いてあった”残している記憶”、まだ食べてないの?」

「……うん」

「どうして?」

 千紗は泣き始めた。

「千紗との大切な記憶を、千紗のことを忘れたくないんだ」

 千紗は大粒の涙を流しながら僕の手を強く握った。そしてこう言った。

「残している記憶も全部食べて」

「そうしてしまったら全部忘れて――」

「生きることのほうが大事でしょ?」

 僕の言葉を遮って千紗は言う。

「僕にとってはどちらも同じくらい大事なんだ」

「――私にとっては優斗くんが生きるほうが大事なの」

 千紗は大きな声で叫んだ。

 記憶しか食べられなくなった僕は、たくさんの幸せな記憶の欠片を抱えて死んでいくつもりだった。記憶は命そのものだ。僕の記憶が完全になくなれば、それは僕ではなくなり、死んだのと変わらない。僕は”普通の死”が訪れる最期の瞬間まで、僕のままでいたかった。……千紗のことを忘れたくなかった。それでも、千紗が望むというのならば僕は――

『大切な記憶』
残り少ない記憶を彼がちゃんと食べるように、日記を見ながらどの記憶を食べるか教えてもらった。彼は食べる前にその思い出を噛みしめているようだった。

 それらに最初に手を付ける前に、彼は言った。

「ごめんね……千紗のことが徐々に分からなくなるかもしれないから今言っておくね。本当に……本当に幸せな日々だった。ありがとう」

 そう言われた瞬間に涙が溢れて、手で拭っても拭っても、溢れ続けて止まらなかった。私も想いを伝えようとする。

「私も……私も……ずっと……幸せで……」

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、上手く言葉にできない。頭に渦巻くのは「ずっと一緒にいたい」「まだ離れたくない」といった独りよがりで無理なお願いと、「やっぱり優斗くんと一緒に消えたい」という彼を最も悲しませるものだった。

 二人で、食べる記憶を思い出しながら語り合う。

 ◇青色の傘、レインコートと長靴を履いて、鼻歌を歌って遊んでいる千紗はこのときのもの

「あのときの君は可愛かったな」

「そう? 今でもかわいいでしょ。あれから私は雨が降るのが楽しみになったんだ」

 ◇僕が泣きながら千紗の手を握って、千紗が目を覚まして『優斗くん、大丈夫?』と言っているのはこのときのもの

「君が無事で本当によかった」

「それは、あなたのおかげだよ。あと……私のために泣いてくれたのが、本当に嬉しかったの」

 ◇千紗に母さんの形見の指輪をはめて、自分も父さんの指輪をはめた。僕が千紗に「ずっと一緒にいられる約束の証」と言ったのはこのときのもの

「……ずっと一緒にいられる約束、守ってあげられなくてごめんね」

「……」

 思い出に一つ一つ取り消し線を引いていく。彼のなかの大切な思い出――それは私にとっても大切な思い出だった。消えていく思い出に反して、今から増えていく思い出はほんの少しだった。新しく書いた日記はやはり、「恥ずかしいから」とあまり見せてくれなかったが、こっそり覗き見ると「千紗は泣いていた」という文字が多く目に付いた。

「今日はどこら辺を歩こうか! 行きたいところとか、やりたいことある?」

 私が聞く。

「千紗の行きたいところに行こう。食料も探しながらね」

「えっと、私が行きたいところ……」

 優斗くんが用意してくれた最期の時間なのに、私はずっとちぐはぐな会話しかできなかった。それでも彼は私と話すときは笑顔で話した。――前と変わらない笑顔で。

 彼はぼーっとすることが増えた。私のわがままで作られた時間。残された時間が、彼の残された記憶が減っていく。私が望んだことなのに彼の記憶がなくなっていくのが辛くて仕方なかった。

「彼が生きるために、私のことを全部忘れてほしい」と私は望んだ……でも、”私のことを忘れないでいてほしかった”。そして私を忘れたその先に、訪れるであろう事実はもっと辛かった。

 ――ダメだなあ私。一番辛いのは優斗くんのはずなのに、私は自分のことばかり。そう思いながらも彼と話していると、ふとした思い出が蘇り泣いてしまう。そしてそれを見て彼も悲しい顔をする。そんなことばかりだった。

 不甲斐ない私と、優しく接する彼。そこに流れる前とは全然違う時間。私が……彼が望んでいる最期はこんなもので良いのだろうか。結局、私にできることなんてなかったのかもしれない。私が彼の日記を知ったことで、彼を余計に悲しませる結果になっただけなのかもしれないとも思った。

 そして……とうとうそのときは来てしまった。優斗くんは歩いている途中、ゆっくりとその場に倒れ込んだ。

 私は倒れた彼の手をずっと握った。優斗くんは怖くないだろうか。――いつかの私が心から救われたみたいに彼を救ってあげたい。どうか……どうか――

『私の記憶』
今僕が座り込んでいる場所にどうやって来たのかも思い出せない。いよいよ記憶が尽きたのだろう。

 寂しそうに泣きながら……千紗が僕の手を握ってくれている。泣いている君を見ると、君が選んだこと――”僕がやったこと”は正しかったのだろうかと思う。今の僕はそれに対しておそらく適切な感情を抱けていない。記憶をなくす以前の僕ならどう思っていただろうか?

 こんなに世界がぼろぼろなのはなぜなのだろうか。戦争があったという事実だけは僕の頭にあるが、その詳細は何も思い出せなかった……千紗のことも。僕の日記によると世界は終わりらしい。君が無事に生きていけるかどうか心配だった。

「ごめんね。約束、守れなくて」

 僕は”もう覚えていない約束”の話をする。

「そんなことないよ……。約束通り……今までずっとそばにいてくれた」

「優斗くんは幸せ……だった?」

「僕は幸せだったよ。日記を見れば分かる。千紗も日記を見てるなら分かるだろう?」

 死にゆく僕にはもう記憶がないけど、君が僕の記憶を持っていてくれるのは嬉しい。

「……うん、でも私の気持ちは結局伝えられてない」

「私の気持ちを伝えるね」

 彼女は話し始める。

「私最初、優斗くんの約束なんて全然信じてなんかなかったんだ」

「また期待して、頑張って、傷つくのが怖かったから」

「一緒にいてくれれば別に誰でもよかったんだ」

「でも途中からやっぱり期待しちゃった」

「優斗くんと一緒にいると嬉しくて楽しくて……優斗くんは期待にいつも答えてくれた」

「私が危ないことをしたら優斗くんは怒ってくれた」

「私が体調を崩したときは私のために泣いてくれた」

「本当に絶望していた私にとってそれは幸せで……幸せで……」

「でも、その分どこかで不安も大きくなっていったの。『また大切な人がいなくなっちゃったらどうしよう』って」

「だけど……だけど……優斗くんはずっと一緒にいてくれた約束通り……約束通りに……」

 彼女は涙が今まで以上に溢れ出して、喋るのが辛そうになる。

「いろんな思い出も大事だけど、何より何気ない日常をくれたことが一番嬉しかった」

「それを私はもっと早くに優斗くんに伝えるべきだった」

「これからも話す機会なんていつでもあると思ってた……」

 千紗は涙で言葉に詰まる。少し呼吸を整えて続ける。

「私は貰ってばかり……優斗くんは幸せだったのかな? 私のわがままで最後の記憶も食べさせちゃって、私のせいで不幸になってないかな?」

 僕の日記を見れば明らかだろう。どう考えても、たくさん貰っていたのは僕のはずだ。

「記憶がなくなった今でも、僕は幸せだと言い切れるよ」

「私はずるいよね。優斗くんはそう答えてくれると知っていて、聞いてるんだから……」

 千紗はそう言ったあと、手を優しくほどいて僕を抱きしめる。彼女は僕の体温を確認するように顔に頬を寄せる。しばらくその体勢で抱き合ったあと、千紗は僕の額と額を合わせた。

 ――その瞬間、僕は激しい頭痛に襲われた。感じたことのない感覚が身体を走る。なんだこれは? 大量の情報が頭に流れてくるのを感じた。 断片的ではあるが、無数の映像。それは人ひとりの人生の映像といっても差支えがなかった。これは記憶……? その記憶の多くには男性の姿があった。”日記の記憶”と重なる点があまりにも多い。……それは優斗のようだった。これは千紗の記憶……?

「どうしたの? 大丈夫? 辛いの?」

 千紗は酷く焦りながら尋ねる。

「……大丈夫」

 そう答えたが、ゆっくり考える時間は残されていない。”私は”千紗の記憶の、日常の欠片を食べる。……それはすかすかのスポンジを食べているようだった。コピーされた記憶はコピーにすぎなかったらしい。たしかに映像として記憶に残っている。それに伴う感情も覚えている。しかし、それは誰かの人生、千紗の人生に他ならなかった。それでも十数年の量があれば、数日は持ちこたえられそうだった。

「少しだけ時間ができた」

「記憶が戻ったの?」

「ごめん、記憶はもう何も残ってない」

「じゃあ、どうして?」

「……僕……にも分からないけど、あともう少し生きられるはず」

 理由は教えなかった。これで本当に生き永らえることができるのか定かではない。そして何より、教えたら千紗は何度でも同じことをしようとするだろう。それで千紗に危険が及ばない保証がどこにもなかった。

 千紗は何も言わずに私を強く抱きしめて、私の服を濡らした。

 私に残されているのは千紗の記憶と日記に綴られた優斗の記憶。……もう完全に優斗は死んでいた。小説で読んだ他人の人生と、映画で観た他人の人生。これは私ではない誰かの記憶だ。優斗が死んだあとの今の私は、最後に何をするべきなのだろうかと考えた。私は……優斗は最期の瞬間、千紗が本当に幸せだったのか確信が持てていなかった。あれだけ言葉を尽くしてくれても、優斗は自分が千紗を幸せにできたのか不安だったようだ。だが、その答え合わせは私にはできる。千紗は心から幸せだった。

 私は……私がいなくなったあとも千紗が少しでも幸せでいられるように、最後の時間を使いたいと思った。――千紗の記憶を辿った。優斗と一緒になってからは嬉しい楽しいそんな感情ばかりだった。しかし、優斗との最後の時間は悲しい寂しいという気持ちが強くなっていた。――彼女はこれほど優斗のことを慕っていたのか。優斗が知ったら、どんな感情を抱くのだろうか。今の私はその好意をどう捉えるべきなのだろうか。

 千紗は優斗の幸せを本当に願っているようだった。それならば私は最期まで幸せでいなければならないだろう。私は”私の幸せのために”千紗を幸せにする。千紗の記憶のなかから幸せな瞬間を探した。優斗が千紗にしてあげたことで、千紗が幸せだったことを。私はそれらを行動に移す。

 歩いているときには手を握り、ことあるごとに頭を撫で、身体を抱きしめた。優斗はあまりこういったことはしなかったらしい。千紗は驚いた様子ではあったが、それを受け入れた。表情は嬉しそうに見えた。

***

 突然与えられた二度目の最期の時間。

「何かしてほしいことはある?」

 彼は言った。記憶をなくしても彼は、私に何かをしてくれようとした。私は涙をこらえる。

「私はないよ。最後まで一緒に今まで通り歩いて回ろう」

 私はきっと最期に彼を悲しませてしまった。だからせめて今回は泣いてしまわないように、彼が私を心配しないようにしなければならない。これは神様がくれた最後の機会だと思った。

「千紗がそうしたいなら、そうしよう!」

 彼は明るく答えた。

 記憶がなくなった彼からは別人のような雰囲気を感じた。それでも彼は、私のために生きてくれた彼に違いない。

 彼は普段あまりしてくれなかったことを、してくれるようになった。何もなくても手を握ったり、頭を撫でたり、抱きしめてくれた。……何も覚えていないのにそうしてくれる彼の優しさに、胸が締め付けられるようだった。

「優斗くんありがとう。嬉しい」

 私は抱きしめられながら、彼に気づかれないように指で涙を拭った。何も覚えていない彼にこんなに甘えてしまっていいのだろうか。なぜ彼はこんなにも優しくしてくれるのだろう。何も覚えていない私に対して……。

***

 千紗の記憶――千紗から見た優斗の記憶すらもなくなっていく。記憶のなかの千紗の感情も分からなくなっていく。文字で読んだ優斗の記憶だけが残っていく。そんななかで、どこか無理のある笑顔を浮かべた千紗と過ごした数日の記憶。私は大切な記憶をたくさんなくしたようだが、最後に大切な記憶をまた貰えた。私にとって”唯一の自分の記憶”。それは愛おしいものだった。自分の目で見る景色は、自分の耳で聴く音は、自分の足で踏みしめる大地の感触は、記憶のなかとは全く別のものだった。そして外から聴いた千紗の声も、ぎこちない会話も、何もかもが特別だった。

 私は私にとっての記憶と……千紗の思い出のなかで特別に幸せな記憶、感情は食べなかった。これを食べると優斗に怒られるような気がした。――千紗をこれだけ幸せな気持ちにできた優斗は、結構よくやったんじゃないかと私は思う。

 ――そして最期のときは訪れる。

 優斗の最期と違って千紗は泣かなかった。……私は上手く振る舞えなかったのだろうか。そんな考えをどうでもよくさせるほどに優しく、彼女は私に微笑んだ。そして手を取って、ゆっくりとした口調で言う。

「怖くないからね。私が最期までずっと一緒にいるからね」

 彼女は歌を歌った。私は初めて歌を聴いた。その旋律は別れの瞬間を優しく包み込むようだった。

 ――ああ、もう少し生きられたならよかったのに。そう思った。きっとそれは優斗のほうがずっと強く思っていたのだろうが。

 それはそれとして私は満足でもあった。優斗の抱えた数年の記録と私が過ごした千紗との数日の記憶。それはありきたりな人生を何周しても得られないほどに、価値のあるものだった。

 私はお別れを告げる。

「今までありがとう。僕は千紗に出会えて本当によかった」

 遠のいていく意識のなかで、慟哭する彼女の声が聞こえた。――無理に強がらなくても良かったのに。そう思うと同時に、私のために君が泣いてくれて嬉しかった。私の人生は幸せだった。きっと優斗の人生も。

***

 千紗には内緒だけど、私には――優斗には最後まで食べずに残しておいた記憶が一つだけあった。日記にも書いていない。彼女はきっと覚えていない。そんな記憶。

 どこかも分からない場所で一緒に鏡に映っている。千紗は鏡で変な顔をしたあと、満面の笑みで笑い掛けてくれた。これが一番大事な記憶だったのだろう。日常の、本当に些細な記憶。

 でも、この記憶一つだけで、この瞬間だけで、そのときに抱いた感情だけで、優斗は、私は、目の前の千紗を世界一大切だと思えたんだ。

『エピローグ』
――あなたのいなくなった世界にはまだ慣れない。慣れそうにない。こんな世界であとどれだけ生きられるかは分からない。でも、生きるんだ。優斗くんは私のために生きてくれた。だから私は、彼のために、私のために、生きるんだ。優斗くんのおかげで私は幸せになれた――きっとこれからも彼と過ごした記憶だけで、ずっと幸せでいられる気がする。私は日記帳を閉じて瞳を閉じる。

「私は大丈夫」

 私はこの記憶と共に生きていく。

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