5月-書き散らし
思うままに書いたもの
16
みんなが帰った放課後の教室。僕は部活が終わって忘れ物を取りにきた。クラスの女の子が机に突っ伏して泣いていた。僕の好きな子だった。夏の終わりでまだじんわりと暑い。カーテンは閉められていたが、遮光性は高くなく光は透いて見えて、隙間からもオレンジ色の光が強く射していた。宙に舞った埃はきらきらしていて、少し幻想的で夢の中のような感覚があった。
教室の入り口で突っ立っていた僕だったが、普段から話さないわけでもない微妙な距離感の彼女に声をかけるべきか悩んでいた。僕は少しでもお近づきになれるのではないかと疾しい気持ちを抱えて声をかけることにした。
「なにかあった?」
彼女は答えない。
「僕でよければ話を聞くけど」
卑しい僕が続けると彼女は突っ伏したままくぐもった声で「うるさい!」と叫んだ。それなりに傷ついて狼狽えていた僕に彼女は続けた。
「みんなみんな死んじゃえばいいんだ」
返す言葉に困った僕は「僕はまだ死にたくないんだけど、ダメ?」とおそらく正解ではない質問をする。
「どうでもいい。好きにすれば」
僕は好きにしていいらしい。仮にみんな死んでしまって彼女と二人きりの世界になったらどうなるだろうなんて妄想をしながら忘れ物を取って帰った。
翌日の彼女は普通だった。そしてあっという間に時は流れて学校を卒業して彼女と会うこともなくなった。あの日以来、彼女と二人きりで話すことはなかったし、あの日のことを話したことも一度もない。あれは夢だったのだと言われればそんな気もしてくる。彼女はなんで泣いていたのだろう。今もみんな死ねばいいと思っているのだろうか。
彼女からもらった変な特別は当時の僕にとっては大切なものだった。あれはまだ有効なのだろうかと考えながら僕はゆっくりと身体を傾けた。
17
粗暴な悪友が僕にはいた。いつも授業では怒られ、学校に来ない日だってある。見た目は普通だが、素行の悪い学生。そんな人間だった。それと対照的な僕はいわゆる優等生というやつで、何かにつけて彼との関係を悪く言われた。「あんなやつとつるんでいたらろくなことにならない」
何度もそう言われた。教師からも友人からも、親からも。しかし僕の性根は優等生ではないらしい。彼との話は誰とするそれよりも楽しく、盛り上がったし、こっそり隠れて一緒に吸うたばこは最高だった。味がいいわけではない。その体験の共有がきっと心地よかったのだ。なんなら彼のほうが良いやつだとさえ思う。僕は正直他人に興味がない。知らない人がどうなろうとどうでもいい。自分の体裁さえ保てれば。
彼は素行が悪く、喧嘩もするし口調はいつも荒々しいが、何かとつけて親切だった。困っている人を見つけては照れ隠しのように「よぉ」と低めの声をかける。最初こそ怖がれるが、最後はみな「ありがとう」と笑顔で言っている。それを聞いた彼は特に嬉しそうにするわけでもなく「待たせた」とだけ僕に言って元の会話に戻る。
僕はきっと彼より良い人間ではないが、彼が幸せになればいいなとは思った。彼には僕よりもその資格がある。未来は誰にもわからない。た漠然と、この先の人生、彼と交わる道はないのだろうなと感じていた。どちらが幸せになるとか、どちらが不幸になるとか、そういった話ではない。ただ歩む道が違うのだ。だから僕は彼とのこの時間は一生でかけがえのないものなのだろうなと今も思いながら、軽口を叩いている。「お前とはいつかぜってー縁切るからな!」
22
彼女の部屋には何もなかった。ただ生活に最低限必要なテーブルや椅子、ベッドしかなかった。同年代の子供はきっと可愛らしいぬいぐるみなどに囲まれているだろう。しかし、彼女にそんなものは必要なかった。
「すまないが、今日も9時から頼むよ」
「はい、分かっています。それが私の役目ですから」
彼女は誰とも会話せず独り言のような口調で答えた。その日、我々の実験は成功した。
3年後、彼女の部屋はぬいぐるみで溢れていた。綺麗に整列されており、皆こちらを向いている。可愛らしい小物や装飾で溢れていた。彼女の表情も別人のように変わっていた。
「今日も9時から…」
「はい! 分かっています!」
彼女は私のほうを真っ直ぐ見て少し微笑んで答えた。私は今日からの実験が心苦しかった。
3年後、彼女の部屋は見違えていた。脱ぎ捨てられた衣類は堆積しており、足元はゴミに溢れていた。たくさんのぬいぐるみは背を向けて置かれ、わたが飛び出しているものもあった。彼女はベッドの上で布団にくるまっていた。
「すまないが、今日も9時から頼むよ」
彼女は答えなかった。黙ったままゆっくり布団から出て、立ち上がる。そして涙をこぼしながら小さな声で言った。
「どうして心なんかをくれたの?」
27
思い付いた物から短文を作る
除湿器
除湿器に溜まる水が減ってきて、季節の移り変わりを感じる。部屋の中にずっといる僕は、それくらいでしか季節の変化を感じることができなかった。
握力グリッパー
作業の合間に握力グリッパーを握る。……力が入らない。今日は疲れているのだろうなと思い早めに寝ることにした。その日から、あの握力グリッパーを閉じることはもうできなかった。
エスカレーター
長いエスカレーターに揺られながら、手すりに肘をついてすれ違う人々を眺める。場所が場所のため、皆楽しそうにしていた。「俺は楽しくないなあ」大き目の声でそう嘆くと皆が一斉にこちらを向いて怪訝そうな顔をする。本当に楽しくないなあ。
蛍光灯
子どものころ、天井の蛍光灯に向かって手を掲げて重ね、手のひらを振っていた。残像が見えて楽しかった。そんなことでも楽しかった。僕は今、同じように部屋の照明に手を重ねて、手のひらを振る。残像は見えなかった。
電線
およそ近代的と呼べるものが何も無いようなこの田舎でも、電気だけは通っていた。ぽつぽつと立っている電柱とそこから張り巡らされた電線は、周りに馴染むことなく浮いていた。この先、ここも近代化が進んで電柱が景色に馴染むか、電柱も必要無いほどに荒廃して景色に馴染むかのどちらかだろう。ほぼ確実に訪れるのは後者であろうことが、少し悲しい。
私はあいつが大嫌いだ。あいつのあらゆる不幸を願った。怪我をすればいい。病気になればいい。学校に来なくなればいい。孤立すればいい。死んでくれたら最高だ。でも今日もあいつは平然と生きていて、笑っている。許せない、許せない許せない。毎日毎日、私はあいつを呪い続ける。いつか不幸になってくれるその日まで。
僕はあの子が大好きだ。彼女の幸福を心から願った。彼女のためなら僕は何をしたって構わない。人だって殺せるだろう。彼女はいつも浮かない顔をしている。今日は思い切って聞いてみた。
「いつも元気ないけど、どうしたの? 何か僕にできることはある?」
彼女はこちらを向かず小さな声で何かを答えた。聞き取れなかった僕が聞き返すと、彼女はこちらを睨みながら言った。
「……死んでよ」
「それは、どういうこと?」
「そのままの意味。あんたに死んでほしい」
「えっと、本当に?」
そのあとの彼女の返事はよく思い出せない。ただ、動揺していた僕でも彼女が本気だということは分かった。彼女はとにかく僕に苦しんで死んでほしいと言っていた。彼女に殺してもらうことも考えたが、それでは彼女が捕まってしまう。僕は動画を残しながらとっておきの死に方をした。彼女が怪しまれないように、彼女を含めたクラス全員に動画を送った。彼女は喜んでくれるかな?
あいつが死んだ! やったやった! 嬉しい……生きていてこんなに嬉しいことは今までなかった。動画は没収されてもう観れないことが残念でならないが、仕方ない。あいつがいないだけで、こんなにも世界の色は明るく、空気は澄んで感じるのだと思った。あれから毎日が楽しくてしょうがない。本当にあいつが死んでくれてよかった。
28
空が曇っていると景色は暗くなる。通学路の脇にある綺麗な青色の池も今日は灰色にくすんでいる。天気が良い日は金色に見える稲穂は茶色に見えた。でも私は雨の日が好きだ。雨が降る前の匂い、降った後の匂い。彩度が下がったいつもの町は、どこか懐かしさに似た気持ちを抱かせてくれる。学校に着いて教室に行くまでの廊下は特に暗かった。この感じが好きだ。いつもと変わらない場所なのに、暗くて、独特の香りがして、大体の人が傘を持っていて、心なしかみんな会話のトーンが落ち着いている。朝なのに教室には電気がついていた。特別な日じゃないのに、ほんの少しだけ特別を感じられる。
「おはよう! 今日は天気悪いね~」
学校から帰る頃には雨は上がっていた。朝の曇天は嘘のように晴天になり、高い空が広がっていた。暗い世界が一気に明るくなり、時間差で作られたコントラストは世界をきらきらさせているように見えた。そこかしこに出来た小さな水溜まりは、いろいろな景色を鏡のように映している。帰っている途中で日が落ちてきた。秋の夕暮れ。辺りは夕焼け色に染まっていた。風が吹くと稲穂がさらさらという心地の良い音を立てる。私は大きく息を吸って深呼吸をする。まだ雨上がりの匂いが残っている。明日の世界の色はどんな色だろう。
わたしは大きな池を見つけた。家族でよく来る公園の奥の林を少し抜けた先で。人は誰もいなくて、水面には大きな葉っぱが浮いていて、とても綺麗だった。わたしはこの発見を早く誰かに教えたくて、走って家に帰った。そして玄関を入ってすぐに靴を脱いでリビングに入ってお母さんに報告する。
「いつも行く公園のね、奥にね、綺麗な池があったの! だから今度――」
「あそこは行っちゃ駄目よ! 危ないんだから。立ち入り禁止の看板見なかったの?」
お母さんは怒った。わたしは泣いてしまった。
「もう、このくらいのことで泣くんじゃないの」
お母さんはわたしを抱き寄せた。わたしはこの場所は、まだみんな知らないと思ってた。とても綺麗だったから見てもらいたいと思った。お母さんにもお父さんにも綺麗だねって言ってほしかった。ただそれだけだったのに、怒られてしまった。わたしはそれを上手く伝えられなくて、ただ泣くことしかできなかった。
ターンテーブルが使いたい。動画でしか見たことがないが、中華といえばターンテーブルというイメージを勝手に持っている。行けそうな範囲の中華の店を調べるが、ターンテーブルがありそうな店がない。そもそも「ターンテーブルがあります」という表記がないので、ネットに有志が載せている写真を確認するしかないのだが、その情報を見た限りではなさそうだった。特別中華が食べたいわけでもないのにターンテーブルのために遠出するのは気が引ける。俺はその場で手を動かして、ターンテーブルを回すイメージをする。上に乗った豪華な料理がくるくると回る。その光景には特に惹かれなかった。ただ重みを感じるその手の感触がほしかった。ターンテーブルを手で回している感触を想像していると遊園地のコーヒーカップを思い出した。久しく乗ってないな。そんなことを考えたあと、俺は近くのコンビニにコーヒーを買いに行った。
29
カフェの中で流れるゆっくりとしたような、でも一瞬で過ぎ去ってしまうような、不思議な時間。古いヨーロッパのような内装。外は晴天でこうこうとしているが、店内は少し薄暗い。私はコーヒーを片手にぼーっと窓の外を眺めたり、店内に置かれた素敵な小物を眺めたりする。カップにソーサー、お皿、カトラリー。店内に飾るように並べられているそのどれもが、こだわりを感じられるものだった。見たところ自宅を改装して営んでいるカフェのようだった。「私も普段からこんなおしゃれな空間で生活したいな」と思いながらコーヒーを少し口に含む。ふとここ数日の出来事をぼんやり振り返る。なんともおしゃれとはかけ離れた、地に足がつきすぎている生活だった。優雅に暮らしたいものだと考えていると、不意に上階からドンという音が聞こえた。人の声のようなものが微かに聞こえる。内容までは聞き取れないが、口調からして怒鳴っているようだった。そうすると店主のおばあさんが私に「申し訳ございません。少し席を外しますね。ゆっくりくつろいでいらしてください」と言って優しく笑って見せた。私も笑顔を返して「お構いなく」と答えると、おばあさんは少し急いだように裏口に向かって消えていった。私は引き続きぼーっとしていた。しばらく怒鳴り声が微かに聞こえていたが、コーヒーを飲み終わるころには静かになった。少しして戻ってきたおばあさんは明らかに疲れた顔をしていた。私に笑顔で会釈してカウンターに戻っていく。一見すると悠々自適な老後のカフェ経営に見えても、やはり生きているとままならないことばかりだよなあと思い知らされる。きっとそれなりに長いこの先の私の人生も、大変なんだろうなあ。そんなことを考えながら、私はコーヒーをもう一杯注文した。
走る時間が好きだ。走っているときは何も考えなくていい。体の感覚をそのまま受け取るだけでいい。息を吸う。踏みしめる地面の硬さ。それを蹴り上げる反動。体の芯から鳴る鼓動。息を吐く。風を切る音。手を大きく振る。息を吸う。少し汗ばんでくる。息も上がってくる。長く速く走るほど、それぞれの感覚が大きくなり、それに支配されていく。ずっと走ると体は苦しいが、現実のほうがずっと苦しい。このまま嫌なことが消えてくれればいいのに。何も考えずに走り続けたい。
30
家族との思い出の品を整理している。無限に物が入るポケットでもあればすべて取っておくのだが、現実はそうはいかない。長く住んだこの家を引っ越すにあたって、僕は持っている物のほとんどを処分しなければならなかった。父が好きだった本をぱらぱらとめくる。母が好きだったグラスを手に取る。僕は記憶力がそこそこ良いので、大体の品につて――それが本当に些細なものであっても――エピソードがいくつか思い出せる。たとえばこのペン――丸みを帯びたフォルムをした回転式の銀色のボールペン。父がドイツの出張先で買ってきたものだ。「あまり高いものではなかったが気に入っている」と言っていたことを覚えている。その後、父はこのペンを失くした。またしばらくして、父が着ていなかったスーツのポケットからこのペンは出てきた。父はそのとき既に亡くなっていた。……これは形見にとっておこうか。僕はそんな調子で、小さな物から大きな物まで一つ一つ時間をかけて見ていった。
「これじゃあいつになったら終わるか分からないな」
僕は二階へ続く階段を登り切ったあと、ある部屋の前に立つ。ルームプレートには「入るときは必ずノックすること!」と丸い字で書いてある。僕は、大きく息を吸って、息を止めて、ドアノブに手を掛けて、目を瞑って、祈るように――ノックをすることなく、部屋に入った。
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「けいくんは本当に自慢の息子よ」
「君は本当にすごいな」
「けいくんすごーい」
「お前は相変わら規格外だな」
僕はいつも褒められて生きてきた。それが当たり前だった。他の人と一緒に何かするたびに「なんでこんなことができないのだろう」と本気で思っていた。そんな生き方を続けていた。そんなとき、事故にあった。僕は変わってしまった。
「なんでこんなことができていたんだろう」
僕は自分がどうやって振る舞っていたのかが思い出せなかった。いや、思い出すことはできる。感覚も覚えている。しかし再現ができない。高校三年生の僕は、病室で中学生用の漢字ノートをやっていた。ほぼ書くことができなかった。思い出せないし、新しく覚えられない。僕は喉の奥から頭のてっぺんまで、じわりと熱くなるのを感じた。それは涙となって目から染み出す。そのままの勢いで僕は握っていたペンを床に投げつけて大きな声を出した。ノートも同じように投げつけて大きな声を出し続けた。慌てた看護師が病室に入ってきてなだめる。ああ、僕は変わってしまった。僕は僕のおかげですごいのだと思っていたが、所詮は運だったのだ。看護師の……まるで子供をなだめるかのような言葉が、僕の頭のなかをぐるぐると回っている。